「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(80)~弟君と老女はどこにいたか

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『書紀』の前回の続き。

田狭、既に任所に之(ゆ)きて、天皇、其の婦を幸(つかは)しつることを聞きて、援(たすけ)を求めて新羅に入らむと思欲ふ。時に、新羅。中国(みかど)に事(つか)へず。天皇、田狭臣の子弟君と吉備海部値赤尾とに詔して曰はく、「汝、往きて新羅を罰(う)て」とのたまふ。是に、西漢才伎歓因知利(かふちのあやのてひとくわんいんちり)、側(おもと)に在り。乃ち進みて奏して曰さく、「奴(やつかれ)より巧(たくみ)なる者、多に韓国に在り。召して使すべし」とまうす。天皇、群臣に詔して曰はく、「然らば、歓因知利を以て、弟君等に副へて、道を百済に取り、併せて勅書を下ひて、巧の者を献(たてまつ)らしめよ」とのたまふ。是に弟君、命を衞(うけたまは)りて、衆を率て、行きて百済に到りて、其の国に入る。国神、老女に化為(な)りて、忽然に路に逢へり。弟君、就(ゆ)きて国の遠さ近さを訪ぬ。老女、報へて言さく、「復(また)一日行きて、而して後に至るべし」とまうす。百済の貢れる今来(いまき)の才伎を大嶋の中に集聚(つど)へて、風候(さもら)ふと称(い)ふに託(つ)けて、淹(ひさ)しく留れること月数(へ)ぬ。

 

「中国」は「みかど」と読んで日本のことを指す。
「是に弟君、命を衞りて」の「衞は代字で

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である。
「田狭、既に任所に之きて」は「田狭既之任所」だが、「之」を「行く」と解することでこのように読み下されている。
「之」は暗号としては否定だが、「乃」と違い、通常前にある名詞を否定する。この場合、田狭と「之」の間に「既」があり、名詞を否定できないようになっている。だから「之」は、この場合動詞ととるべきだろう。
動詞ととって否定の意味があるかどうかだが、この後は「任所」とあるだけで任那とは書いていない。動詞としての「之」に否定の意味があれば、ただの「任所」を否定する必要はそんなにないと考えるべきだろう。今のところは動詞としての「之」に否定の意味はないと判断しておこう。田狭は任所に行ったが任那に行ったとは書いていない。
は「天皇、其の婦を幸しつることを聞きて」は「聞天皇之幸其婦」で、「其」は田狭の夫人の否定で、「天皇でない者が田狭の夫人でない者の所に行った」となるがどういうことだろう?「天皇でない者」は田狭の夫人の所に行かなかったが天皇は行ったともとれるニュアンスである。
「田狭臣の子弟君」は「田狭臣子弟君」で、弟君が田狭臣の「御子」でないことがこれで確定する。
西漢才伎歓因知利が「乃ち進みて奏して曰さく」とあるが、「乃進而奏曰」だから「乃ち進みて而して奏して曰さく」である。「進んで」いるから「而して」いるのであって、「而して」いないなら「奏して」いない。しかし「曰」は二重否定で「言っている」可能性がある。
この後天皇も「言っていない」が、「弟君等に副へて」の「等」は弟君を否定しているので二重否定になる。ならば歓因知利を弟君に同伴させたかといえばそうではない。『書紀』では台詞は基本的に「言っていない」ので、弟君だけが「言った」ことになるのは、弟君と歓因知利の関係の明確な否定と考えるのがもっとも妥当だと思う。
「行きて百済に到りて、其の国に入る」は、弟君が百済に入っていないことを表しているようだが、判然としない。それでも出てきた国神は百済の者ではない。
「国神、老女に化為りて」の「化為」を「為る」と同じと判断して良いかまだわからないが、ここでは同じと判断しよう。「老女」は『記紀』において重要な存在らしく、度々登場する。
「就きて国の遠さ近さを訪ぬ」とは、「老女」が「其の国」にいないからである。当然老女は国神ではない。老女は「其の国」にはいないが、弟君は話すことができる距離にいる。
位置関係を考えれば、弟君は任那にいると考えられ、老女は百済にいると考えられる。しかし本当にそうだろうか?
老女が「報へて言」したのは、「言った」ことの否定である。
「復一日行きて、而して後に至るべし」とは、道が遠くないことだと思うのだが、弟君は帰った。
ところが「百済の貢れる今来の才伎を大嶋の中に集聚へて(集百済所貢今来才伎於大嶋中)」とある。百済に入らずに人を受け取ることができるのだろうか?
だから弟君は百済から、新羅に入国したと考えることもできる。その場合、国神は新羅の者である。
『書紀』は新羅の国神を老女に仕立てあげて、それを任那の国神のように見せようとしているのだろうか?
そしていずれにせよ、老女は百済にいるとしか考えられない点は注目すべきところだろう。
次回もまた、この続きを見ていこう。

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