「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(78)~雄略が吉備上道臣田狭の妻稚媛を奪う事件

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『雄略紀』七年の記事。

是歳、吉備上道臣田狭、殿の側に侍りて盛に稚媛を朋友に称りて曰はく、「天下の麗人は、吾が婦に若(し)くは莫(な)し。茂(こまやか)に棹(きはやか)にして、諸の好(かほ)備れり。嘩(あからか)に温(にこやか)に、種(くさぐさ)の相(かたち)足れり。鉛花(いろ)も御つくろわず、蘭沢(か)も加ふること無し。絋(ひさ)しき世にも檮穽(たくひまれら)ならむ。時(いまのとき)に当りては独秀れたる者なり」といふ。天皇、耳を傾けて遥に聴しめして、心に悦びたまふ。便(すなは)ち自ら稚媛を求ぎて女御としたまはむと欲す。田狭を拝(ことよさ)して、任那国司にしたまふ。俄(しばらく)ありて、天皇、稚媛を幸しつ。田狭臣、稚媛を娶りて、兄君、弟君を生めり。別本に云はく、田狭臣が婦の名は毛媛といふ。葛城襲津彦の子、玉田宿禰の女なり。天皇、体貌閑麗(みなりきらきらし)と聞しめして、夫を殺して自ら幸しつといふ。

 

さすがに『古事記』と違い、『書紀』は読み下し文だけでは意味が理解できなくなってきた。「嘩に温に、種の相足れり。鉛花も御つくろわず、蘭沢も加ふること無し。絋しき世にも檮穽ならむ」とは「にこやかで明るく輝き、際立って愛らしい。お化粧もその必要がなく久しい世にも比いまれな」という意味である(宇治谷孟訳)。重複も多いので、意訳した感がある。
「棹」「嘩」「絋」「檮穽」が代字でそれぞれ

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である。
最初に押さえるポイントは当然、吉備上道臣田狭が稚媛の容姿について語っていないことである(「称りて」だから誉めてはいるのだろう)。
そして天皇が「便ち自ら求ぎて女御としたまはむと欲す」とあるが、これは「便欲自求稚媛女御」で、女御に「為」したが本当は女御になっていないのである。
しかし「稚媛を幸しつ」とあるではないかと思うだろうが、これは「幸(いでま)す」、つまり簡易で公的でない「行幸」を意味している。それは

ヤマトタケルは開化天皇である(77)~「膳夫」と「宍人部」 - 「人の言うことを聞くべからず」+

を読んでもらえばご理解頂けるだろう。つまり妻問いであり、性的交渉があったのは確かである。しかし妻問いは夫婦関係の有無を明確にするものではなく、まして後宮に侍る女御を意味しない。「幸(いでま)す」を「幸(め)し」と読ませ、「召す」と解釈させるトリックである。そして性的交渉がある以上、夫婦関係は否定できても、二人の間に子が生まれない保証はない。
そしてこの稚媛だが、後に清寧天皇に謀反を起こす星川稚宮皇子の「御祖」とされている。しかし「雄略紀』元年三月には、

次に吉備上道臣の女稚姫一本に云はく、吉備窪屋臣の女といふ。有り。二の男を生めり。長(このかみ)を磐城皇子と曰す。少(おとと)星川稚宮皇子下の文に見ゆ。と曰す。

 

とあり、稚媛でなく稚「姫」である。もっとも「曰」なので、稚「姫」の「御子」の「御名」でないのは明確であり、「二の男を生めり」と「二柱」などの明確さがないため、稚「姫」の「御子」が二人かどうかは相当に怪しい。また原文では「吉備上道臣の女」は「吉備上道臣女」、「一本に云はく」の異伝は「吉備窪屋臣女」と、それぞれ親子関係を感じさせない表記となっている。
ちなみに「一書に云はく」とある場合は正しい伝承だが、「一本」とある場合は嘘の伝承であると思っている。稚「姫」とその「御子」には何重ものフェイクがかかっているが、それが何を意味するかはまだわからない。
雄略七年に戻って、「別本に云はく」の注だが、「別」と「本」の二重否定で、正しい伝承だと思っている。しかし「葛城襲津彦の子、玉田宿禰の女なり」は「葛城襲津彦玉田宿禰之女也」で、玉田宿禰葛城襲津彦の「御子」ではないが、毛媛は玉田宿禰の「御子」であるのは間違いないという、すっきりしない表記となっている。
さて、「名」毛媛が登場したが、「名」毛媛が稚媛と別人だと考える必然的な理由は今のところ欠いている。稚媛は出自不明の人物である。稚媛が「名」か「御名」かはわからないが、この二人を同一だと考える必要性をまだ排除できないのである。
そして「田狭を拝して、任那国司にしたまふ」は「拝田狭、為任那国司」で、田狭は任那国司ではない。
田狭は「吉備上道臣田狭」である可能性が高いと思う。しかし「田狭臣」は田狭と同一人物だろうか?田狭と稚媛夫婦関係は、ここでは全く証明されていない。

次回、この続きを見てみよう。

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