「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(77)~「膳夫」と「宍人部」

ヤマトタケルは開化天皇である(72)~百済武寧王の誕生 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見たように、雄略二年は、百済の池津媛が焼き殺されたことになっている年である。本当に焼き殺されたのかどうかは判断がつかないとしても。
そして雄略二年の十月の記事。

冬十月の辛未の朔癸酉(三日)に、吉野宮に幸す。丙子(六日)に、御馬瀬に幸す。虞人(やまのつかさ)に命(みことおほ)せて縦(ほしいまま)に猟す。重れる峰に凌り長(ひろ)き莽(はら)に赴く。未だ移影(ひもかたぶかざる)に、什が七八を獲る。猟する毎に大きに獲。鳥獣、尽きむとす。遂に旋(めぐ)りて林泉に憩ふ。藪沢に相羊(もとほりあそ)び、行夫を息めて車馬(みくるま)を展(かぞ)ふ。群臣(まへつきみたち)に問ひて曰はく、「猟場の楽は、膳夫(かしわで)をして鮮(なます)を割(つく)らしむ。自ら割らむに何与(いか)に」とのたまふ。群臣、忽(たちまち)に対(こた)へまうすこと能はず。是に、天皇、大きに怒りたまひて、刀を抜きて御者大津馬飼を斬りたまふ。是の日に、車駕(すめらみこと)、吉野宮より至(かへりいた)りたまふ。国内に居る民、咸(ことごとく)に皆振ひ怖づ。是に由りて、皇太后と皇后と、聞しめして大きに懼(かしこ)みたまふ。倭の采女日媛をして酒を挙げて迎へ進(たてまつ)らしむ。天皇采女の面貌端麗(きらきら)しく、形容温雅なるを見して、乃ち和顔悦色(うれし)びたまひて曰はく、「朕、豈(あに)汝が妍咲(よきあそび)を観まく欲せじや」とのたまひて、乃ち手を相携(うつから)びて、後宮に入りましぬ。

 

「重れる峰に凌り」の「峰」、
「什が七八を獲る」の獲」、「観」はそれぞれ

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である。途中まで主語が無いが、百済の池津媛の話の直後なので主語は「天皇」である。
「群臣に問ひて曰はく」だが、「猟場の楽は」は「猟場之楽」で、この部分は「言っている」ことになっている。「膳夫をして鮮を割らしむ。自ら割らむに何与に(使膳夫割一レ鮮。何與自割)」では意味が通じない訳ではないにしろ、自分で「鮮」を作るのに、なぜ膳夫に「割」らせるのかがわからない。
「聞しめして大きに懼みたまふ」
は「聞之大懼」で、皇太后と皇后は恐れていない。「倭の采女日媛」だが、「乃ち和顔悦色びたまひて曰はく(乃和顔悦色曰)」、「乃ち手を相携びて(乃相携手)」で、采女を「喜ばず」、「手の携えず」に後宮に入ったとある。ただし「采女」とあるだけで、日媛は後宮に入れた可能性は残されている。
この後の文を見てみよう。

太后に語りて曰はく、「今日の遊猟に大きに禽獣を獲たり。群臣と鮮割りて野饗せむとして、群臣に歴(とな)め問ふに、能く対へまうすひと有ること莫し。故、朕、嗔(いか)りつ」とのたまふ。皇太后、斯(こ)の詔の情(こころ)を知りて、天皇を慰め奉らむとして曰したまはく、「群臣、陛下の遊猟場に因りて、宍人部を置きたまはむとして、群臣に降問ひたまふことを悟らじ。群臣黒然(もだ)はべりたることは、理なり。且(また)対へまうすこと難(かた)みなり。今貢るとも晩(おそ)からじ。我を以て初とせよ。膳臣長野、能く宍膾を作る。願はくは此を以て貢らむ」とまうしたまふ。天皇、跪礼(ゐや)びて受けたまひて曰はく、「善きかな。鄙(いや)しき人の云ふ所の『貴(たふときひと)、心を相知る』といふは、此を謂ふか」とのたまふ。皇太后天皇の悦びたまふを観(みそなは)して、歓喜盈懐(あら)ぎます。更人を貢りたまはむとして曰はく、「我が厨人菟田御戸部、真鋒田高天(まさきたたかめ)、此の二人を以て、加貢(くは)へて、宍人部とせむと請ひたまふ」とのたまふ。玄(これ)より以後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を貢りて、宍人部とす。臣連伴造国造、又随(したが)ひて続ぎて貢る。

 

「群臣黒然(もだ)はべりたることは」の「黒」、「玄より以後」の「玄」はそれぞれ

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である。
それにしても「今日の遊猟に大きに禽獣を獲たり(今日遊猟大獲禽獣)」と言っていないとはおかしい。この日は収穫はあったはずである。
前の文に、「是の日に、車駕(すめらみこと)、吉野宮より至りたまふ(是日、車駕至吉野宮)」とあるが、帰ったのは「車駕」で天皇ではない。「車駕」を天皇と読むのは間違いである。つまりこれは後日の話である。つまり天皇は「采女」を見たが日媛は見ていない。日媛と雄略の接点は全く無いことになる。
「我を以て初とせよ」は「以我為初」で「初でない」と言っていないという二重否定で、皇太后が宍人部を始めたことになる。
「我が厨人菟田御戸部、真鋒田高天、此の二人を以て、加貢へて、宍人部とせむと請ひたまふ」は「我之厨人菟田御戸部真鋒田高天、以此二人、請将加貢、為宍人部」でこの二人は皇太后の厨人でないが、二重否定により宍人部になった。
「玄より以後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を貢りて、宍人部とす」と、ここで「大倭」が出た。

ヤマトタケルは開化天皇である(73)~「主嶋」はヤマトタケル=開化の出生地 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で「大倭」について初めて述べた。「大倭」には「天王」がいる。

ヤマトタケルは開化天皇である(75)~末多王は任那人、そして… - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見たように、末多王を東城王に「為」したのは「天王」だった。任那人の末多王を東城王に「為」すのに敢えて「天王」と記したのは、そこが支配の及ばない地域だからだろう。そして「天皇」は、「倭の采女日媛」と接点が無い。
ならば「大倭」とは「天皇」、つまり雄略の一族が支配する国で、本来「天皇」は「天王」なのではないか?
太后の意見を受けて、「。鄙しき人の云ふ所の『貴、心を相知る』といふは、此を謂ふか」とのたまふ」と天皇は「言わなかった」。
この原文は「鄙人所云、貴相知心、此之謂也」で、「貴、心を相知る」を三重に否定している。これでは皇太后に同意していないことになる。
これは本心は、「鄙人の云ふ所の~」から三重に否定したかったからではないのか?つまり「大倭」と称しても、「倭」に比べれば雄略は「鄙人」なのである。

この話は、百済の池津媛の変わりに「倭の采女日媛」が雄略の後宮に入ったことにするための物語である。そして翌年には「石」が生まれる。それが「稚日本根子彦大日日「尊」としたいというのが『書紀』の狙いのようである。
そして「「玄より以後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を貢りて、宍人部とす」の末尾は「為宍人部」である。
宍人部の役割は膳夫と同じである。しかし岩波日本書紀三巻の補注には、律令制の品部、雑戸には宍人部の遺制と認められるものがないそうである。
狭穂子鳥別は宍人部に「なっていない」が、「玄より以後(自レ玄以後)」の「玄」が文脈を踏まえているかどうかは疑問である。これは狭穂子鳥別、そして大倭国造吾子籠宿禰が宍人部だからではないか?
宍人部とは本来料理人ではなく、狩猟を生業とする部なのだろう。
雄略は自分が膳夫になりたかったのである。膳夫が丹波系の職業でなく、出雲系の職業だから。

次回、雄略七年を見ていこう。

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