「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(80)~弟君と老女はどこにいたか

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『書紀』の前回の続き。

田狭、既に任所に之(ゆ)きて、天皇、其の婦を幸(つかは)しつることを聞きて、援(たすけ)を求めて新羅に入らむと思欲ふ。時に、新羅。中国(みかど)に事(つか)へず。天皇、田狭臣の子弟君と吉備海部値赤尾とに詔して曰はく、「汝、往きて新羅を罰(う)て」とのたまふ。是に、西漢才伎歓因知利(かふちのあやのてひとくわんいんちり)、側(おもと)に在り。乃ち進みて奏して曰さく、「奴(やつかれ)より巧(たくみ)なる者、多に韓国に在り。召して使すべし」とまうす。天皇、群臣に詔して曰はく、「然らば、歓因知利を以て、弟君等に副へて、道を百済に取り、併せて勅書を下ひて、巧の者を献(たてまつ)らしめよ」とのたまふ。是に弟君、命を衞(うけたまは)りて、衆を率て、行きて百済に到りて、其の国に入る。国神、老女に化為(な)りて、忽然に路に逢へり。弟君、就(ゆ)きて国の遠さ近さを訪ぬ。老女、報へて言さく、「復(また)一日行きて、而して後に至るべし」とまうす。百済の貢れる今来(いまき)の才伎を大嶋の中に集聚(つど)へて、風候(さもら)ふと称(い)ふに託(つ)けて、淹(ひさ)しく留れること月数(へ)ぬ。

 

「中国」は「みかど」と読んで日本のことを指す。
「是に弟君、命を衞りて」の「衞は代字で

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である。
「田狭、既に任所に之きて」は「田狭既之任所」だが、「之」を「行く」と解することでこのように読み下されている。
「之」は暗号としては否定だが、「乃」と違い、通常前にある名詞を否定する。この場合、田狭と「之」の間に「既」があり、名詞を否定できないようになっている。だから「之」は、この場合動詞ととるべきだろう。
動詞ととって否定の意味があるかどうかだが、この後は「任所」とあるだけで任那とは書いていない。動詞としての「之」に否定の意味があれば、ただの「任所」を否定する必要はそんなにないと考えるべきだろう。今のところは動詞としての「之」に否定の意味はないと判断しておこう。田狭は任所に行ったが任那に行ったとは書いていない。
は「天皇、其の婦を幸しつることを聞きて」は「聞天皇之幸其婦」で、「其」は田狭の夫人の否定で、「天皇でない者が田狭の夫人でない者の所に行った」となるがどういうことだろう?「天皇でない者」は田狭の夫人の所に行かなかったが天皇は行ったともとれるニュアンスである。
「田狭臣の子弟君」は「田狭臣子弟君」で、弟君が田狭臣の「御子」でないことがこれで確定する。
西漢才伎歓因知利が「乃ち進みて奏して曰さく」とあるが、「乃進而奏曰」だから「乃ち進みて而して奏して曰さく」である。「進んで」いるから「而して」いるのであって、「而して」いないなら「奏して」いない。しかし「曰」は二重否定で「言っている」可能性がある。
この後天皇も「言っていない」が、「弟君等に副へて」の「等」は弟君を否定しているので二重否定になる。ならば歓因知利を弟君に同伴させたかといえばそうではない。『書紀』では台詞は基本的に「言っていない」ので、弟君だけが「言った」ことになるのは、弟君と歓因知利の関係の明確な否定と考えるのがもっとも妥当だと思う。
「行きて百済に到りて、其の国に入る」は、弟君が百済に入っていないことを表しているようだが、判然としない。それでも出てきた国神は百済の者ではない。
「国神、老女に化為りて」の「化為」を「為る」と同じと判断して良いかまだわからないが、ここでは同じと判断しよう。「老女」は『記紀』において重要な存在らしく、度々登場する。
「就きて国の遠さ近さを訪ぬ」とは、「老女」が「其の国」にいないからである。当然老女は国神ではない。老女は「其の国」にはいないが、弟君は話すことができる距離にいる。
位置関係を考えれば、弟君は任那にいると考えられ、老女は百済にいると考えられる。しかし本当にそうだろうか?
老女が「報へて言」したのは、「言った」ことの否定である。
「復一日行きて、而して後に至るべし」とは、道が遠くないことだと思うのだが、弟君は帰った。
ところが「百済の貢れる今来の才伎を大嶋の中に集聚へて(集百済所貢今来才伎於大嶋中)」とある。百済に入らずに人を受け取ることができるのだろうか?
だから弟君は百済から、新羅に入国したと考えることもできる。その場合、国神は新羅の者である。
『書紀』は新羅の国神を老女に仕立てあげて、それを任那の国神のように見せようとしているのだろうか?
そしていずれにせよ、老女は百済にいるとしか考えられない点は注目すべきところだろう。
次回もまた、この続きを見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(79)~雄略が吉備上道臣田狭の妻稚媛を奪う事件

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『雄略紀』七年の記事。

是歳、吉備上道臣田狭、殿の側に侍りて盛に稚媛を朋友に称りて曰はく、「天下の麗人は、吾が婦に若(し)くは莫(な)し。茂(こまやか)に棹(きはやか)にして、諸の好(かほ)備れり。嘩(あからか)に温(にこやか)に、種(くさぐさ)の相(かたち)足れり。鉛花(いろ)も御つくろわず、蘭沢(か)も加ふること無し。絋(ひさ)しき世にも檮穽(たくひまれら)ならむ。時(いまのとき)に当りては独秀れたる者なり」といふ。天皇、耳を傾けて遥に聴しめして、心に悦びたまふ。便(すなは)ち自ら稚媛を求ぎて女御としたまはむと欲す。田狭を拝(ことよさ)して、任那国司にしたまふ。俄(しばらく)ありて、天皇、稚媛を幸しつ。田狭臣、稚媛を娶りて、兄君、弟君を生めり。別本に云はく、田狭臣が婦の名は毛媛といふ。葛城襲津彦の子、玉田宿禰の女なり。天皇、体貌閑麗(みなりきらきらし)と聞しめして、夫を殺して自ら幸しつといふ。

 

さすがに『古事記』と違い、『書紀』は読み下し文だけでは意味が理解できなくなってきた。「嘩に温に、種の相足れり。鉛花も御つくろわず、蘭沢も加ふること無し。絋しき世にも檮穽ならむ」とは「にこやかで明るく輝き、際立って愛らしい。お化粧もその必要がなく久しい世にも比いまれな」という意味である(宇治谷孟訳)。重複も多いので、意訳した感がある。
「棹」「嘩」「絋」「檮穽」が代字でそれぞれ

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である。
最初に押さえるポイントは当然、吉備上道臣田狭が稚媛の容姿について語っていないことである(「称りて」だから誉めてはいるのだろう)。
そして天皇が「便ち自ら求ぎて女御としたまはむと欲す」とあるが、これは「便欲自求稚媛女御」で、女御に「為」したが本当は女御になっていないのである。
しかし「稚媛を幸しつ」とあるではないかと思うだろうが、これは「幸(いでま)す」、つまり簡易で公的でない「行幸」を意味している。それは

ヤマトタケルは開化天皇である(77)~「膳夫」と「宍人部」 - 「人の言うことを聞くべからず」+

を読んでもらえばご理解頂けるだろう。つまり妻問いであり、性的交渉があったのは確かである。しかし妻問いは夫婦関係の有無を明確にするものではなく、まして後宮に侍る女御を意味しない。「幸(いでま)す」を「幸(め)し」と読ませ、「召す」と解釈させるトリックである。そして性的交渉がある以上、夫婦関係は否定できても、二人の間に子が生まれない保証はない。
そしてこの稚媛だが、後に清寧天皇に謀反を起こす星川稚宮皇子の「御祖」とされている。しかし「雄略紀』元年三月には、

次に吉備上道臣の女稚姫一本に云はく、吉備窪屋臣の女といふ。有り。二の男を生めり。長(このかみ)を磐城皇子と曰す。少(おとと)星川稚宮皇子下の文に見ゆ。と曰す。

 

とあり、稚媛でなく稚「姫」である。もっとも「曰」なので、稚「姫」の「御子」の「御名」でないのは明確であり、「二の男を生めり」と「二柱」などの明確さがないため、稚「姫」の「御子」が二人かどうかは相当に怪しい。また原文では「吉備上道臣の女」は「吉備上道臣女」、「一本に云はく」の異伝は「吉備窪屋臣女」と、それぞれ親子関係を感じさせない表記となっている。
ちなみに「一書に云はく」とある場合は正しい伝承だが、「一本」とある場合は嘘の伝承であると思っている。稚「姫」とその「御子」には何重ものフェイクがかかっているが、それが何を意味するかはまだわからない。
雄略七年に戻って、「別本に云はく」の注だが、「別」と「本」の二重否定で、正しい伝承だと思っている。しかし「葛城襲津彦の子、玉田宿禰の女なり」は「葛城襲津彦玉田宿禰之女也」で、玉田宿禰葛城襲津彦の「御子」ではないが、毛媛は玉田宿禰の「御子」であるのは間違いないという、すっきりしない表記となっている。
さて、「名」毛媛が登場したが、「名」毛媛が稚媛と別人だと考える必然的な理由は今のところ欠いている。稚媛は出自不明の人物である。稚媛が「名」か「御名」かはわからないが、この二人を同一だと考える必要性をまだ排除できないのである。
そして「田狭を拝して、任那国司にしたまふ」は「拝田狭、為任那国司」で、田狭は任那国司ではない。
田狭は「吉備上道臣田狭」である可能性が高いと思う。しかし「田狭臣」は田狭と同一人物だろうか?田狭と稚媛夫婦関係は、ここでは全く証明されていない。

次回、この続きを見てみよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(77)~「膳夫」と「宍人部」

ヤマトタケルは開化天皇である(72)~百済武寧王の誕生 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見たように、雄略二年は、百済の池津媛が焼き殺されたことになっている年である。本当に焼き殺されたのかどうかは判断がつかないとしても。
そして雄略二年の十月の記事。

冬十月の辛未の朔癸酉(三日)に、吉野宮に幸す。丙子(六日)に、御馬瀬に幸す。虞人(やまのつかさ)に命(みことおほ)せて縦(ほしいまま)に猟す。重れる峰に凌り長(ひろ)き莽(はら)に赴く。未だ移影(ひもかたぶかざる)に、什が七八を獲る。猟する毎に大きに獲。鳥獣、尽きむとす。遂に旋(めぐ)りて林泉に憩ふ。藪沢に相羊(もとほりあそ)び、行夫を息めて車馬(みくるま)を展(かぞ)ふ。群臣(まへつきみたち)に問ひて曰はく、「猟場の楽は、膳夫(かしわで)をして鮮(なます)を割(つく)らしむ。自ら割らむに何与(いか)に」とのたまふ。群臣、忽(たちまち)に対(こた)へまうすこと能はず。是に、天皇、大きに怒りたまひて、刀を抜きて御者大津馬飼を斬りたまふ。是の日に、車駕(すめらみこと)、吉野宮より至(かへりいた)りたまふ。国内に居る民、咸(ことごとく)に皆振ひ怖づ。是に由りて、皇太后と皇后と、聞しめして大きに懼(かしこ)みたまふ。倭の采女日媛をして酒を挙げて迎へ進(たてまつ)らしむ。天皇采女の面貌端麗(きらきら)しく、形容温雅なるを見して、乃ち和顔悦色(うれし)びたまひて曰はく、「朕、豈(あに)汝が妍咲(よきあそび)を観まく欲せじや」とのたまひて、乃ち手を相携(うつから)びて、後宮に入りましぬ。

 

「重れる峰に凌り」の「峰」、
「什が七八を獲る」の獲」、「観」はそれぞれ

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である。途中まで主語が無いが、百済の池津媛の話の直後なので主語は「天皇」である。
「群臣に問ひて曰はく」だが、「猟場の楽は」は「猟場之楽」で、この部分は「言っている」ことになっている。「膳夫をして鮮を割らしむ。自ら割らむに何与に(使膳夫割一レ鮮。何與自割)」では意味が通じない訳ではないにしろ、自分で「鮮」を作るのに、なぜ膳夫に「割」らせるのかがわからない。
「聞しめして大きに懼みたまふ」
は「聞之大懼」で、皇太后と皇后は恐れていない。「倭の采女日媛」だが、「乃ち和顔悦色びたまひて曰はく(乃和顔悦色曰)」、「乃ち手を相携びて(乃相携手)」で、采女を「喜ばず」、「手の携えず」に後宮に入ったとある。ただし「采女」とあるだけで、日媛は後宮に入れた可能性は残されている。
この後の文を見てみよう。

太后に語りて曰はく、「今日の遊猟に大きに禽獣を獲たり。群臣と鮮割りて野饗せむとして、群臣に歴(とな)め問ふに、能く対へまうすひと有ること莫し。故、朕、嗔(いか)りつ」とのたまふ。皇太后、斯(こ)の詔の情(こころ)を知りて、天皇を慰め奉らむとして曰したまはく、「群臣、陛下の遊猟場に因りて、宍人部を置きたまはむとして、群臣に降問ひたまふことを悟らじ。群臣黒然(もだ)はべりたることは、理なり。且(また)対へまうすこと難(かた)みなり。今貢るとも晩(おそ)からじ。我を以て初とせよ。膳臣長野、能く宍膾を作る。願はくは此を以て貢らむ」とまうしたまふ。天皇、跪礼(ゐや)びて受けたまひて曰はく、「善きかな。鄙(いや)しき人の云ふ所の『貴(たふときひと)、心を相知る』といふは、此を謂ふか」とのたまふ。皇太后天皇の悦びたまふを観(みそなは)して、歓喜盈懐(あら)ぎます。更人を貢りたまはむとして曰はく、「我が厨人菟田御戸部、真鋒田高天(まさきたたかめ)、此の二人を以て、加貢(くは)へて、宍人部とせむと請ひたまふ」とのたまふ。玄(これ)より以後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を貢りて、宍人部とす。臣連伴造国造、又随(したが)ひて続ぎて貢る。

 

「群臣黒然(もだ)はべりたることは」の「黒」、「玄より以後」の「玄」はそれぞれ

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である。
それにしても「今日の遊猟に大きに禽獣を獲たり(今日遊猟大獲禽獣)」と言っていないとはおかしい。この日は収穫はあったはずである。
前の文に、「是の日に、車駕(すめらみこと)、吉野宮より至りたまふ(是日、車駕至吉野宮)」とあるが、帰ったのは「車駕」で天皇ではない。「車駕」を天皇と読むのは間違いである。つまりこれは後日の話である。つまり天皇は「采女」を見たが日媛は見ていない。日媛と雄略の接点は全く無いことになる。
「我を以て初とせよ」は「以我為初」で「初でない」と言っていないという二重否定で、皇太后が宍人部を始めたことになる。
「我が厨人菟田御戸部、真鋒田高天、此の二人を以て、加貢へて、宍人部とせむと請ひたまふ」は「我之厨人菟田御戸部真鋒田高天、以此二人、請将加貢、為宍人部」でこの二人は皇太后の厨人でないが、二重否定により宍人部になった。
「玄より以後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を貢りて、宍人部とす」と、ここで「大倭」が出た。

ヤマトタケルは開化天皇である(73)~「主嶋」はヤマトタケル=開化の出生地 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で「大倭」について初めて述べた。「大倭」には「天王」がいる。

ヤマトタケルは開化天皇である(75)~末多王は任那人、そして… - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見たように、末多王を東城王に「為」したのは「天王」だった。任那人の末多王を東城王に「為」すのに敢えて「天王」と記したのは、そこが支配の及ばない地域だからだろう。そして「天皇」は、「倭の采女日媛」と接点が無い。
ならば「大倭」とは「天皇」、つまり雄略の一族が支配する国で、本来「天皇」は「天王」なのではないか?
太后の意見を受けて、「。鄙しき人の云ふ所の『貴、心を相知る』といふは、此を謂ふか」とのたまふ」と天皇は「言わなかった」。
この原文は「鄙人所云、貴相知心、此之謂也」で、「貴、心を相知る」を三重に否定している。これでは皇太后に同意していないことになる。
これは本心は、「鄙人の云ふ所の~」から三重に否定したかったからではないのか?つまり「大倭」と称しても、「倭」に比べれば雄略は「鄙人」なのである。

この話は、百済の池津媛の変わりに「倭の采女日媛」が雄略の後宮に入ったことにするための物語である。そして翌年には「石」が生まれる。それが「稚日本根子彦大日日「尊」としたいというのが『書紀』の狙いのようである。
そして「「玄より以後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を貢りて、宍人部とす」の末尾は「為宍人部」である。
宍人部の役割は膳夫と同じである。しかし岩波日本書紀三巻の補注には、律令制の品部、雑戸には宍人部の遺制と認められるものがないそうである。
狭穂子鳥別は宍人部に「なっていない」が、「玄より以後(自レ玄以後)」の「玄」が文脈を踏まえているかどうかは疑問である。これは狭穂子鳥別、そして大倭国造吾子籠宿禰が宍人部だからではないか?
宍人部とは本来料理人ではなく、狩猟を生業とする部なのだろう。
雄略は自分が膳夫になりたかったのである。膳夫が丹波系の職業でなく、出雲系の職業だから。

次回、雄略七年を見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(76)~盧城部連武彦と栲幡皇女の姦淫事件

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『雄略紀』の三年四月の記事を見てみよう。

三年の夏四月に阿閉臣国見、更の名は、磯特牛(しことひ)。栲幡皇女と湯人の盧城部連武彦とを譜(しこ)ぢて曰はく、「武彦、皇女を奸(けが)しまつりて任身(はら)ましめたり」といふ。湯人、此をば臾衛(ゆえ)と云ふ。武彦の父枳莒喩、此の流言を聞きて、禍の身に及ばむことを恐る。武彦を盧城河に誘へ率(たし)みて、偽きて使鵜玄没水捕魚(うかはするまね)して、因りて其不意(ゆくりもなく)して打ち殺しつ。天皇、聞しめして使者を遣して、皇女を案へ問はしめたまふ。皇女、対へて言さく、「妾は、識らず」とまうす。俄にして皇女、神鏡を齏(と)り持ちて、五十鈴河の上(ほとり)に詣でまして、人の行かぬところを伺ひて、鏡を埋みて経(わな)き死ぬ。天皇、皇女の不在(な)きことを疑ひたまひて、恒に闇夜に東西に求覺めしめたまふ。乃ち河上に虹の見ゆること蛇の如くして、四五丈ばかりなり。虹の起てる処を掘りて、神鏡の獲(う)。移行未遠にして、皇女の屍を得たり。割きて観れば腹の中に物有りて水の如し。水の中に石有り。枳莒喩、斯(これ)に由(よ)りて、子の罪を雪(きよ)むること得たり。還りて子を殺せることを悔いて、報(たむか)ひに国見を殺さむとす。石上神宮に逃げ匿れぬ。

 

「鵜玄没水捕魚」の「鵜」と「玄」、「俄にして皇女、神鏡を齏り持ちて」の「齏」、「恒に闇夜に東西に求覺めしめたまふ」の「覺」は代字で、それぞれ

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である。
栲幡皇女は雄略の皇女とされている。
雄略元年三月に、

是の月に、三の妃を立つ。元妃葛城円大臣の女を韓媛と曰ふ。白髪武広国押稚日本根子天皇と稚足姫皇女更の名は、栲幡姫皇女。とを生めり。是の皇女、伊勢大神の祠に侍り。

 

とある。見ての通り、雄略三年に登場したのは栲幡皇女であって、栲幡「姫」皇女ではない。私は「更」は現時点では『古事記』の「亦」と同じだと思っているが、もし「更」が否定の意味で「名」との二重否定で「御名」になったとしても、栲幡皇女と栲幡「姫」皇女が同一になることはない。
話を雄略三年に戻そう。
「武彦の父枳莒喩」は「武彦之父枳莒喩」で、武彦は枳莒喩の「御子」である。枳莒喩は「因りて其不意して打ち殺しつ」とあるが、「因其不意而打殺之」とあるので
枳莒喩は武彦を殺していない。
「乃ち河上に虹の見ゆること蛇の如くして(乃於
河上虹見如蛇)」だが、「蛇の如く」の「如」は「蛇のようでそうではないもの」を表し、虹が蛇でないことを意味している。
しかしこの文の曲者なのが「乃」である。
「乃」を動詞を否定していると思ったが、「見」を否定しても「虹の見えないこと蛇の如く」となり、しっくりこない。
「割きて観れば腹の中に物有りて水の如し。水の中に石有り」とあるが、「石」は「水」の中にあるのであって、「水の如」き物の中にあるのではない。しかし「割きて観れば」は「割而観之」で、「観てない」のである。
「枳莒喩、斯に由りて、子の罪を雪むること得たり」とあるが、「斯」を「これ」と読むパターンは今のところ他に見当たらない。それはともかく、皇女を犯す罪を働いたのは「子」ではなく、枳莒喩の「御子」の武彦である。もっとも讒言した阿閉臣国見は「曰」で言っていないことになっている。
雄略が皇女を問い詰めた時、皇女は「妾は識らず」と言っているが、実は「言」は否定である。このことはその内やるとしよう。
更に栲幡皇女という名前は一度しか登場せず、後は「皇女」と呼ばれている。この「皇女」が栲幡皇女である保証はない。
以上から、次のように推論できる。
まず「皇女」は、栲幡皇女でないように見えて実は栲幡皇女本人である。
虹が蛇のように見えたという文を「乃」を使って更に混乱させているのは、栲幡皇女が実は「蛇」だからである。つまり雄略の「御子」である皇女は蛇ではない。
「皇女」の腹の中に水のような物があり、水の中に石があるのは、雄略の「御子」たる皇女の腹の中には「水」と「石」があるからである。だから栲幡皇女の腹の中にあるのは「水の如」き物であって「石」はない。
「子の罪を雪むること得たり」とあって、枳莒喩の「御子」の武彦のことでないのは、武彦による雄略の「御子」たる皇女の姦淫が歴史的事実だからである。そしてそれはおそらく罪ではなかったのであって、だから枳莒喩も武彦を殺せなかった。これは私がヤマトタケル=開化がワカタケルとその娘の近親婚による子供で、ヤマトタケル=が母と近親婚をしたという仮説と合致する。
つまり盧城部連武彦はヤマトタケル=開化である。「皇女」が「妾は識らず」と言わないのは、「皇女」=栲幡皇女をヤマトタケル=開化と近親婚をした母にするためである。そして母子婚により生まれたのが「石」である。
それでは栲幡皇女とは何者か?
次回、雄略二年を見ていくことにしよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(75)~末多王は任那人、そして…

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『書紀』の「雄略紀」二十一年を見てみよう。

二十一年の春三月に、天皇百済、高麗の為に破れぬと聞きて、久麻那利(こむなり)を以て汶洲王に賜ひて、其の国を救ひ興す。時人皆云はく、「百済国、属(やから)既に亡びて、倉下に聚(いわ)み憂ふと唯(いへど)も、実に天皇の頼に、更其の国を造(な)せり」といふ。汶洲王は蓋鹵王の母の弟なり。日本旧記に云はく、久麻那利を以て、末多王に賜ふといふ。蓋(けだ)し是、誤ならむ。久麻那利は、任那国の下多呼利県(あるしたこりのこほり)の別邑なり。

 

「下多呼利県」の「多」と「利」は代字である。それぞれ、

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となる。
「其の国を救ひ興す(其興其国)」、「更其の国を造(な)せり(更造其国)」とあるが、

ヤマトタケルは開化天皇である(67)~「等」はアバウトな否定、「其」は文脈を引き継ぐとは限らない。 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見たように文脈を引き継ぐとは限らず、「其の国」は百済を意味しない。
しかし、このように書く理由はないのである。
「日本旧記に云はく」以降の文に、「久麻那利を末多王に賜る」とあるが、「蓋し是、誤ならむ」として否定している。「蓋し」とは古臭い言い回しだが一応現代語で、「思うに」という意味である。その理由が「久麻那利は、任那国の下多呼利県の別邑なり」である。
久麻那利は熊津(ゆうしん)のこととされる。現代の韓国の中清南道公州市で、熊津なら明らかに百済の領域で、任那のはずがない。
ところが、「久麻那利は、任那国の下多呼利県の別邑なり」の原文は「任那国下多呼利県之別邑也」で、「之」と「別」の二重否定で久麻那利=下多呼利県となる。「蓋し」は「思ったけど違う」という、否定に見せた肯定にここではなる。

ヤマトタケルは開化天皇である(73)~「主嶋」はヤマトタケル=開化の出生地 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で、典拠がある場合は『書紀』の本文が否定されると述べたが、『日本旧記』によって本文が否定された以上、「其の国を救ひ興す」と「わざわざ百済でない国が救い興された」と強調する必要がないからである。
ならば二重否定かというとそう簡単なことではないように思う。
天皇百済、高麗の為に破れぬと聞きて(天皇聞下百済
高麗所破上」は「百済、高麗と為り」と読むべきではないかと考えるからである。ただこの点はこれ以上深入りしない。「百済、高麗と為り」と読むと見えてきそうなところがあるのだが、また機会のある時にすることにしよう。

続いて、二十三年の記事。

二十三年の夏四月に、百済の文斤王(もんこんおう)、薨せぬ。天王、昆支王の五の子の中に、第二にあたる末多王の、幼年(わか)くして聡明(さと)きを以て、勅して内裏に喚(め)す。親(みずか)ら頭面を撫でて、誠勅慇懃(いましむることねんごろ)にして、其の国に王とならしむ。依(よ)りて兵器を賜ひ、併せて筑紫国の軍士五百人を遣して、国に衛り送らしむ。是を東城王とす。

 

「依りて兵器を賜ひ」の「依」は代字で正しくは

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である。
原文では、「第二にあたる末多王(第二末多王)」と、「是を東城王とす(是為東城王)」が末多王が東城王でないことを表す以外に怪しい所はない。「第二にあたる末多王」が怪しいのは、『書紀』では、血の繋がりと兄弟順を顕す時は「第~子」と記述するからである。本来「子」は血の繋がりを顕していないが、「第~子」と記載された場合は、『古事記』の「御子」と同じになると考えている。しかしそういう記述ではなく、「昆支王の五の子の中に(昆支王五子中」の末多王が選ばれたとなっている。「五の子」が昆支王の「御子」でないのは明白である。

ヤマトタケルは開化天皇である(73)~「主嶋」はヤマトタケル=開化の出生地 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた「百済新撰に云はく」以降の記述は、実は百済のことではなく、任那の下多呼利県のことである。
武寧王は「是崑支王子の子(是崑支王子之子」で末多王の異母兄である。
「今案ふるに、嶋王は是蓋鹵王の子なり。末多王は、是崑支王の子なり。此を異母兄と曰ふは、未だ詳ならず」とあるのは重要である。
「嶋王是蓋鹵王之子也。末多王、是崑支王之子也」で、武寧王でなく嶋王のことを述べ、「此を異母兄と曰ふは」と、嶋王が末多王の異母兄であることを否定している。
「今案ふるに」以降は末多王は任那人であり、その異母兄の武寧王任那人であることを最後まで否定しなかったのである。
この問題は、「異母兄」をどう理解するかにあるだろう。それはまた機会のある時にしよう。

次回、稚日本根子彦大日日「尊」の生年の可能性がある雄略三年を見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(74)~松浦の佐用姫伝説に見る「主嶋」と百済の「倉下」

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今回は、「松浦の佐用姫」の伝承である。まずは『肥前国風土記』から。

鏡の渡 郡役所の北にある。

昔、檜隈の廬入野の宮に天の下を治められた武少広国押楯(宣化天皇)のみ世に、大伴の狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮めさせ、かたがた百済の国を救援させ給うた。狭手彦は命を奉じてこの村まできて、篠原の村《篠はシノという》の弟日姫子を妻問いして結婚した。《日下部君らの祖である。》この姫は顔かたちは端正で美しく、人の世にすぐれた絶世の美人であった。別離の日になると、〔狭手彦は〕鏡を取り出して愛人に渡した。女は悲しみ泣きながら栗川を渡ると、贈られた鏡の緒が断れて落ち、川の中に沈んだ。そのことによってここを鏡の渡(渡し場)と名づける。

褶(ひれ)振の峰 郡役所の東にある。烽(とぶひ)のある場所の名を褶振の峰という。

大伴の狭手彦連が船出して任那に渡った時、弟日姫子はここに登って褶(肩布)をもって振りながら別れを惜しんだ。そのことによって名付けて褶振の峰という。


さて弟日姫子が狭手彦連と別れて五日たった後、ひとりの人があって、世ごとにきて女(弟日姫子)とともに寝、暁になると早く帰った。顔かたちが狭手彦に似ていた。女はそれを不思議に思ってじっとしていることができず、ひそかにつむいだ麻〔の糸〕をもってその人の衣服の裾につなぎ、麻のまにまに尋ねて行くと、この峰の沼のほとりに来て寝ている蛇があった。身は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の底に臥していた。たちまちに人と化為(な)って歌っていった。

篠原の弟姫の子ぞ

さ一夜も率寝てむ時や

家にくださむ

(篠原の弟姫子よ

一夜さ寝た時に

家に下し帰そうよ)

その時弟日姫子の侍女が走って親族の人たちに告げたので、親族の人はたくさんの人たちを連れて登って見たが、蛇と弟日姫子はともに亡せてしまっていなかった。そこでその沼の底を見るとただ人の屍だけがあった。みんなはこれは弟日姫子の遺骸だといって、やがてこの峰の南のところに墓を作って納めて置いた。その墓は現在もある。

 

以上が『肥前国風土記』の内容で、松浦の佐用姫は弟日姫子という名前になっている。
松浦の佐用姫の伝承の初出といっていいが、私の勘違いで、肝心の部分が入っていない。仕方がないので、ウィキペディアを見てみよう。

松浦佐用姫 - Wikipedia

ウィキペディアによると、佐用姫は大伴狭手彦と別れた後、加部島に渡って石になったとある。
しかしこれが文献資料によるものかがわからない。口伝えの伝承などでは、暗号が使えないので判断ができない。『万葉集』にも佐用姫の伝説が書かれているというが、加部島に渡って石になったと書いてあるかまでは見ていないためわからない。
ただ、ここで加部島が出た。加部島は、前回、前々回の嶹王が生まれた各羅嶋(加唐島)の隣の島である。そして加部島が、私がヤマトタケル=開化の出生地である「主嶋」の最有力候補だと思っている地である。
『書紀』の雄略二十年を見てみよう。

二十年の冬に、高麗の王、大きに軍兵を発して、伐ちて百済を尽(ほろぼ)す。爰(ここ)に小計(すこしばかり)の遺衆有りて、倉下(へすおと)に聚み居り。兵粮既に尽きて、憂泣(いさ)つること茲(ここ)に深し。是に、高麗の諸の将、王に言して曰さく、「百済の心許、非常(おもひのほかにあや)し。臣、見る毎に、覚えず自らに失(まど)ふ。恐るらくは更蔓生(またうまは)りなむか。請はくは逐ひ除(はら)はむ」とまうす。王の曰はく、よくもあらず。寡人(おのれ)聞く、百済国は日本国の宮家として、由来遠久し。又其の王、入りて天皇に仕す。四隣の共に識る所なり。といふ。遂に止む。百済記に云はく、蓋鹵王の乙卯年の冬に、狛の大軍、来りて、大城を攻むること七日七夜、王城降陥れて、遂に尉礼を失ふ。国王及び大后・王子等、皆敵の手に没ぬといふ。

 

「倉下」を「へすおと」と読んでいるが、なぜ「へすおと」と読んだのだろう。『書紀』には読み方が書いてある場合があるが、ここにはない。
「倉下」は「へすおと」ではなく「くらじ」ではないか?
百済記に云はく」と注があり、大筋はそれになぞっているが、「倉下」に僅かの兵が集まったとは『百済記』には書いていない。つまり「倉下」に人が集まったというのは嘘である。
次回、この後百済がどうなったのか見てみよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(73)~「主嶋」はヤマトタケル=開化の出生地

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武烈紀の武烈四年の記事。

是歳、百済の末多王、無道して、百姓(たみ)に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王をたつ。是を武寧王とす。百済新撰に云はく、末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、共に除つ。武寧王立つ。諱は斯麻王といふ。是れ崑支王子の子なり。即ち末多王の異母兄なり。崑支、倭に向づ。時に、筑紫嶋に至りて、斯麻王を生む。嶋より還し送りて、京に至らずして、嶋に産る。故因りて名づく。今各羅の海中に主嶋有り。王の産まれし嶋なり。故、百済人、号(なづ)けて主嶋とすといふ。今案(かむが)ふるに嶋王は是蓋鹵王の子なり。末多王は、是れ崑支王の子なり。此を異母兄の曰ふは、未だ詳ならず。

 

まず、崑支の「崑」は検索できない漢字で、正しくは

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である。

ヤマトタケルは開化天皇である(72)~百済武寧王の誕生 - 「人の言うことを聞くべからず」+

の雄略五年の記事には実は続きがある。

秋七月に、軍君、京に入る。。既にして五の子有り。百済新撰に云はく、辛丑年に、蓋鹵王、弟昆支君を遣して、大倭に向でて、天王に侍らしむ。以て兄王の好(よしみ)を脩むるなりといへり。

 

とある。
「昆支」、「昆支君」などとあるが、現時点でこれらを区別することに意味は感じていない。
問題は、「昆支君」が「大倭」に向かい、「天王」に仕えたと書かれていることである。「軍君」は「日本」に向かい、「天皇」に仕えたはずである。
「曰」だから「加須利君」はそう言ってないではないかと思うならそれは違う。「乃ち其の弟軍君に告げて曰はく」は「乃告其弟軍君」で二重否定である。「曰」以外にどれが否定の字かと言えば、それは「乃」である。
「乃」を「すなわち」と読ませ、文章の冒頭に置いているが、「乃」は冒頭にある時はその文章の全体か文章の動詞、おそらく文章の動詞を否定している。『古事記』に宇遅能和紀郎子の異母妹宇遅乃若郎女が登場するが、宇遅乃若郎女の存在理由の少なくともひとつは、宇遅乃若郎女が宇遅能和紀郎子と近親婚関係にないことを知らせることで「乃」が否定の意味だとわからせるためである。
加須利君は軍君に、「日本に行き天皇に仕えろ」と言っている。「大倭」でなく「日本」、「天王」でなく「天皇」である。「大倭」という表記はいくつかの箇所で見かけているが、未だに仮説を立てられる段階にはない。とにかくここで言えることは、加須利君=蓋鹵王、軍君=昆支ではないということである。
しかし軍君に「昆支なり(昆支也)と注がついている。だから軍君=昆支だと思うだろうが、おそらくこの注が嘘である。
注の真偽を見分ける方法は、典拠があるかどうかだろう。「昆支」が「大倭」に向かったことは、『百済新撰』は『書紀』にしか存在したことが記されていない散逸文献だが、とにかく『百済新撰』を典拠として、加須利君=蓋鹵王、軍君=昆支を遠回しに否定しているのである。

さて、武烈四年の記事である。
「崑支王子」、「昆支」、「昆支王」という表記の違いがあるが、やはり現時点でこれらの表記の違いを区別はできない。
違いは「昆支」と「崑支」だろう。「昆支」が「大倭」に向かい「天王」に仕えたのに対し、「崑支」は「倭」に向かった。その「崑支」の「御子」が武寧王である。「是れ崑支王子の子なり(是崑支王子之子」とあるので、武寧王が崑支王子の「御子」なのは確実である。
そして武寧王は、諱が斯麻王である。『書紀』には「御名」という表記がないので、諱が『古事記』の「御名」のことだと思っている。
嶋王は加須利君の「御子」である。嶋王も武寧王ではないかと思うだろうが、「是を武寧王とす(是為武寧王)である。

ヤマトタケルは開化天皇である(63)~「おれ」は「お前」か? - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見てきたことが、ここで生きてくる。
「意礼大国主神と為り(意礼二字以音大国主神」とあるように、本来その人物でない者が成り代わったように装うには「為」る必要があるのである。
「今案ふるに嶋王は是蓋鹵王の子なり(今案嶋王是蓋鹵王之子也)」は嘘で、嶋王は加須利君の「御子」である。嘘を述べるために「今案ふるに」と言っているのである。
その軍君→昆支→崑支と変わるごとに、行き先が日本→大倭→倭と変わっていく。

「各羅の海中に主嶋有り」とあるが、この場合「各羅」は海の名前である。
嶋王は各羅嶋で生まれている。斯麻王は筑紫嶋で生まれており、これは九州をさす。主嶋と接点のある者は登場しない。
「故、百済人、号けて主嶋とすといふ」は「故百済人号為主嶋」で、「号けて主嶋と為す」と読むべきである。本来主嶋と呼ばないものを主嶋と「為」したのである。
ここで推測しなければならない。つまり『書紀』は、本来の主嶋を別のものに、そして百済人が呼ぶものにしなければならなかった。ならば主嶋とは、ヤマトタケル=開化の出生地ではないか?そして『書紀』が百済人が主嶋と呼んだことに仕立てようとしたことは、ヤマトタケル=開化が新羅人である可能性をかえって強めているのではないか?
主嶋については心当たりがある。次回、『風土記』を見ていこう。

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