「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(72)~百済武寧王の誕生

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今回は『書紀』の雄略五年の記述を取り上げるが、まずその前に、雄略二年の記述から。

二年の秋七月に、百済の池津媛、天皇の将に幸さむとするに違ひて、石川楯に婬けぬ。

旧本に云はく、石河股合首の祖楯といふ。天皇、大きに怒りたまひて、大伴室屋大連に詔して、来目部をして夫婦の四支を木に張りて、仮技(さずき)の上に置かしめて、火を以て焼き死しつ。

百済新撰に云はく、己巳年に蓋鹵王立つ。天皇、阿礼奴跪を遣わして、来りて女郎(えはしと)を索はしむ。百済、慕尼夫人の女を荘飾らしめて、適稽女郎(ちゃくけいえはしと)と曰ふ。天皇に貢進るといふ。

 

「仮技」とは桟敷のことである。「技」の字も字が出ないために当てた字で正しくは

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である。
「適稽女郎と曰ふ(曰適稽女郎)」とあるから、「慕尼夫人の女(慕尼夫人女)」は適稽女郎ではない。

続いて、雄略五年四月の記事。

夏四月に、百済の加須利君、

蓋鹵王なり。飛(つてこと)に池津媛の焼き殺されたることを聞きて、

適稽女郎ぞ。籌議(はか)りて曰はく、「昔女人を貢りて采女とせり。而るに既に礼無くして、我が国の名を失へり。今より以後女を貢るべからず」といふ。乃ち其の弟軍君(こにきし)

昆支なり。に告げて曰はく、「汝、日本に往でて天皇に事へまつれ」といふ。軍君、対へて曰さく、「上君の命を違ひ奉るべからず。願はくは、君の婦を賜ひて、而して後に奉遣したまへ」とまうす。加須利君、則ち孕める婦を以て、軍君に嫁せて曰はく、「我が孕める婦、既に産月に当たれり。若し路にして産まば、冀(ねが)はくは一の船に載せて至らむに随ひて何処にありとも、速に国に送らしめよ」といふ。遂に与(とも)に辞訣れて、朝(みかど)に奉遣る。
六月の丙戌の朔に、孕める婦、果して加須利君の言の如く、筑紫の各羅嶋にして児を産めり。仍りて此の児を名けて嶋君と曰ふ。是に、軍君、即ち一の船を以て、嶋君を国に送る。是を武寧王とす。此の嶋を呼びて主嶋(にりむせま)と曰ふ。

 

蓋鹵王が「百済の池君媛が焼き殺された」のを聞いたとあるが、原文は「飛聞池津媛之所焼殺」である。また「焼」も字が違い、

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である。もっとも池津媛が「焼き死」されていないと言っているのではなく、雄略二年に「焼き死」された人物と、雄略五年に蓋鹵王が聞いた「焼き殺」された人物は違うのである。そして蓋鹵王が聞いた人物は「適稽女郎」である。
そして各羅嶋で「児」が産まれた。「名」けて嶋君と「曰」うので、二重否定で嶋君は「御名」である。
この嶋君が武寧王で、武寧王は各羅嶋で産まれた。しかしこの嶋は主嶋と呼ばれていない。
なお、百済の池津媛は百済出身であること以外、一切出自に関する記述がない。そして「焼き死」されたとあるが、「焼き死」されたのは「夫婦」で、池津媛とも石川楯とも書かれていない。
ここに百済王朝の系図を示そう。

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随分違う。蓋鹵王は武寧王の曾祖父である。昆支でさえ武寧王の祖父である。
蓋鹵王は「我が孕める婦、既に産月に当たれり。」と言っていないが、「我が孕める婦」は「我孕婦」で、これを二重否定と取れば肯定である。
『書紀』は、あくまで武寧王を蓋鹵王の「御子」にしたいらしい。
この武寧王に関する記述が、「武烈天皇紀」にもある。次回、武烈天皇を見ていこう。

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