「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である~(71)開化天皇と清寧天皇、『書紀』と『先代旧事本紀』の関係

古事記』の開化天皇は稚倭根子日子大毘々命である。
『書紀』「開化紀」では、稚日本根子彦大日日天皇である。「倭」と「日本」の違いが気になるが、まだ「倭」が何を意味するかわかっていない。
しかし「毘」と「日」の違いがあるので、稚倭根子日子大毘々命が丹波系、稚日本根子彦大日日天皇を出雲系とみなすことができる。
他にも違うところがある。
稚倭根子日子大毘々命は「春日之伊耶河宮」で天下を治ろしめしたが、稚日本根子彦大日日天皇は、


冬十月丙申の朔戊申に、都を春日の地に遷す。春日、此をば箇酒鵝と云ふ。此を率川宮と謂ふ。率川、此をば伊社箇波と云ふ。

 

「是謂率川宮。」だから、率川宮は伊耶河宮ではない。だから稚倭根子日子大毘々命と稚日本根子彦大日日天皇は違う。
また『書紀』には、稚日本根子彦大日日天皇の他に、稚日本根子彦大日日「尊」という人物がいる。
「孝元紀」に、

二十二年の春正月の己己の朔壬午(十四日)に、稚倭根子彦大日日「尊」を立てて皇太子としたまふ。年十六。

 

とある。「開化紀」には、「大日本根子彦国牽天皇の二十二年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。年十六」とあるが、「己己の朔壬午」とは記載されていない。
またこの二人は、没年齢も違うのである。
「六十年夏四月の丙辰の朔甲子に、天皇崩りましぬ」と開化紀にあるが、孝元二十二年に十六歳で皇太子となり、孝元五十七年に孝元天皇が死んでいるので、開化天皇は百十一歳が没年齢のはずである。しかし、

冬十月の癸丑の朔乙卯に、春日率川坂本陵に葬りまつる。一に云はく、坂上陵。時に年百十五といふ。

 

と、「一に云はく」からの没年齢が違うのである。
もっとも、全てを確認してはいないが、ほとんどの天皇立太子したのは「~尊」である。そして『先代旧事本紀』での天皇も「~の尊」である。開化天皇も『先代旧事本紀』では稚日本根子彦大日日の「尊」という名で天皇として名を連ね、没年齢は百十五歳である。私が持っている『先代旧事本紀』は現代語のみで原文がないため確定しないのだが、一見して『書紀』に登場する、各天皇立太子した「~尊」が、そのまま『先代旧事本紀』の天皇にスライドしているように見える。しかしそうなると「~の尊」と「の」が入っているのが気になる。

「雄略紀」の二十二年を見ると、


二十二年の春正月の己酉の朔に白髪の皇子を以て皇太子とす。

 

とある。白髪皇子、すなわち清寧天皇は、奇しくも開化天皇と同じ、前天皇の二十二年の正月に立太子したことになる。
「清寧紀」に、「二十二年に、立ちて皇太子と為りたまふ」とあるので、白髪武広国押稚日本根子天皇と呼ばれる清寧天皇は正月に立太子したのではない可能性もあるが、稚日本根子彦大日日「尊」と同じく、「春正月の己己の朔壬午」に立太子した可能性があるのである。
そもそも、「二十二年」とあるだけで、雄略天皇の二十二年とは書いていない。名前も「稚日本根子」と、開化天皇と同じ名が入っている。
そして雄略天皇の二十二年に立太子したとした場合、その年十六歳ならば、生まれた年は雄略六年、数え年ならば雄略七年となる。また稚日本根子彦大日日「尊」の没年齢が稚日本根子彦大日日天皇と四歳違うと考えて、雄略二年か三年を見ることもできる。『書紀』では稚日本根子彦大日日天皇と「~尊」は同年齢のはずだが、『先代旧事本紀』の開化天皇は『書紀』と同じ開化六十年に死んでおり、『書紀』の二人の開化天皇より四歳年上となる。こう見ると、『書紀』の「~尊」は、『先代旧事本紀』の「~の尊」を作り出すための存在と見ることができる。
その年を見ていくと、それなりに気になる記述があるが、私が注目したいのは雄略五年である。
そもそも、「年」というのを、私はその人物の正しい年齢を記しているとは思っていない。
古事記』においては、その人物の年齢は「御歳」と記される。「御」がつかない限り、その人物の年齢を示しているとはみなせない。
そういう理由もあって、開化=清寧とした場合の生年から一年もしくは二年前の雄略五年を、次回見ていこう。

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