「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(30)~三人の応神天皇

シリーズ第一回目から読みたい方はコチラ↓

sakamotoakiraf.hateblo.jp

1.『古事記仲哀天皇条では、

息長帯比売命 こは大后なり。を娶して生みましし御子は、品夜和気命、次に大鞆和気命、亦の名は品陀和気命。

 

とあり、この大鞆和気命が応神天皇である。
しかし『書紀』では、気長足姫(おきながたらしひめ)が生んだのは誉田(ほむだ)天皇一人である。誉屋別皇子は来熊田造の祖大酒主の娘、弟媛と仲哀天皇の間の子である。

2.『古事記』では、応神天皇が皇太子の時に、越前の角鹿で気比大神と名前を交換する記事がある。
しかし『書紀』ではこの記事を、


けれどもそういった記録はなくまだつまびらかでない。

 

と記している。『書紀』より先に成立したとされる『古事記』を無視した主張である。

3.『書紀』の応神誕生の記事は、神功皇后紀では


(仲哀九年)十二月十四日、後の応神天皇を筑紫で産まれた。時の人はその産処(うみのところ)を名づけて宇彌といった。

 

 

とあるが、応神紀には「仲哀九年十二月、筑紫の蚊田でお生まれになった」とある。宇彌は現在の福岡県糟屋郡宇美町だが、Wikipediaによれば、蚊田は筑後国御井郡賀駄郷、あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田であり、場所が違う。応神紀で「誉田天皇は」と言っているのに、神功皇后紀には「後の応神天皇を」と言い、応神の諱のホムダワケの名前を使うのを避けている。

3.からみれば、神功皇后紀の応神と応神紀の応神は別人である。
神功皇后紀では、

気長足姫尊は開化天皇の曾孫、気長宿禰王の女(むすめ)である。

 

 

と始まっている。
その後仲哀天皇の皇后となり、仲哀が死んで応神を即位させるまで、神功皇后は69年間摂政を続けた。摂政1年に、神功皇后は皇太后となっている。以後、神功皇后は皇太后と記載されている。
そして皇太后が死んで葬った後に、

この日に皇太后に諡をたてまつって、気長足姫尊という。

 

と書かれている。気長足姫尊とは諡であって、諱ではないのである。
実は皇太后になった後に、1ヶ所だけ「神功皇后は」と書かれている箇所がある。神功摂政5年で、内容を詳細に研究していないのだが、私はこの箇所の神功が、諡ではなく諱が気長足姫尊の方だと思っている。
もっとも諱がそうだというのは、正確ではない。
1.の大酒主の娘弟媛の他に仲哀にはもう一人妃がいる。それが

ヤマトタケルは開化天皇である(25)~飯豊皇女と「ハエ媛」 - 「人の言うことを聞くべからず」+

 

 

の大中比売で、『書紀』では
大中「媛」となっている。

ヤマトタケルは開化天皇である(27)~稲田宮主とクシナダ姫の深層 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で、「媛」表記は『書紀』側の人物を表すことを述べたが、弟媛と大中媛は丹波系であり、「気長足姫尊」は出雲系である。諱が気長足姫尊の神功皇后は、諡がそれの出雲系人物を本体として、『書紀』が丹波系の人物の事蹟をあくまで神話として挿入したものである。だから仲哀九年十二月十四日に生まれた応神は丹波系で、

ヤマトタケルは開化天皇である(22)~聖徳太子について - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた、真の仲哀の子としての応神である。
1.で述べたように、『古事記』では品夜和気が神功の子となっているが、それは品夜和気もまた応神だからだろう。
『書紀』には、大鞆和気という名前はない。
古事記』は、『亦の名』として品陀和気という名前を使っているが、ホムダワケという名前を用いるのに、『古事記』側は相当の遠慮があるようである。そしてより遠慮しなくていい名前がホムヤワケであり、『古事記』がホムヤワケを神功の子とするのは詐称だが、この詐称により、『古事記』側は格を上げているのである。
それでは2.はどうだろうか。
「そういった記録はない」
というのは、応神を擁護しているようで、実は逆である。
仲哀紀2年に、

二月六日、敦賀においでになった。仮宮をたててお住まいになった。これを笥飯(けひ)宮という。

 

 

とある。『越前国風土記逸文』にも、「気比の神宮は宇佐八幡と同体」とある。理由はわからないが、仲哀も応神なのである。
次回は、仁徳天皇についてみていこう。


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