「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(23)~『記紀』には「倭の五王」のことは書かれていない

シリーズ第一回目から読みたい方はコチラ↓

sakamotoakiraf.hateblo.jp

中田力著『日本古代史を科学する』では、天皇の在位年数を各時代の平均在位年数で割り出し、過去にさかのぼることで短くなる在位年数(つまり寿命が短くなる)に、相関関係があることを明らかにしている。
その上で飛鳥時代以前の天皇の在位年数を相関関係によって割り出し、神武天皇までの代数と対応させたところ、神武の即位した年は282年となった。つまり3世紀であり、考古学者、歴史学者が日本の始まった時代としている年代とほぼ一致する。
私はこの中田の説を支持する。
一方、戦後無頼派の作家で、古代史への関心も高かった坂口安吾は、『飛騨・高山の抹殺』(新潮社『堕落論』に収録)で、
「天智以前までは百年にも足らないぐらい短いのだ」
と主張している。
私は、この坂口の説も支持する。
中田の説と坂口の説は完全に矛盾している。
今回は前回の

ヤマトタケルは開化天皇である(22)~聖徳太子について - 「人の言うことを聞くべからず」+

で、なぜ2、3世紀から7世紀の聖徳太子に話が飛んだのかを説明する回だが、その答えは、中田説と坂口説の矛盾を解消することで見えてくる。

埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣に「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と銘があること、そして中国の史書に「倭の五王」の記述があり、「倭の五王」の一人「武」の名前から、「武」が雄略天皇=獲加多支鹵だとするのが考古学、歴史学会の定説である。そして学者達は、『記紀』を中心に研究して、中国の史書と対応する部分を探しだそうとする。
私は、雄略が倭王「武」である可能性は高いと思っている。雄略=「武」であることで、『記紀』と中国の史書は対応している。対応しないのはその事蹟である。『記紀』に雄略として描かれた天皇の事蹟は、雄略=「武」のものではない。2、3世紀の人物の事蹟である。

どういうことか、説明しよう。
「三王朝交代説」に見られるように、天皇家の系図が複数の王朝を繋げたものであるのはほぼ明らかである。
しかし系図の改竄があっても、歴代天皇の代数は歴史的事実をそのまま記載した可能性が高く、各天皇の在位時期も『記紀』により若干の違いがあるとはいえ、ほぼ歴史的事実と対応している。
それでも各天皇の事蹟は、『記紀』には書かれていない。書かれているのは2、3世紀の、わずか数代の天皇の事蹟である。

学者は、中国に「倭の五王」の記述があり、日本に『記紀』があるから、中国の史書と『記紀』は対応するところがあるはずだと考える。『記紀』が都合の悪い部分を改竄、削除したとしても、その痕跡はあるはずだと思って研究する。しかしこの考えがそもそもの間違いなのだと、私は思っている。学者の思考は、既に歴史の思考である。『記紀』は歴史ではなく「神話」である。
「神話」の思考をした場合、「倭の五王」はどうなるか。中国の南朝朝貢した「倭の五王」の時代とは、古代の日本人にとってつまらない時代なのである。
国際的な交流が盛んで、海外の文物が流入する時代は華やかである。後世から見て、そのような時代を我々は輝かしい時代だと思う。
しかし、このような時代に生きる人々には海外の、特に中国などの大きな文明圏に対し屈折感を持っている。明治時代の夏目漱石の文学などに、我々はその屈折感を見出だすことができる。
しかし明治時代だからこそ、我々はその時代の海外に対する屈折感を垣間見ることができるが、古代の少ない文献からは、屈折感は見いだせない。だから、想像するしかない。

古代における輝かしい時代とは、むしろ中国と交流しなかった時代である。中国と交流しないことで、古代人は楽に呼吸することができた。
その時代は邪馬台国が魏に朝貢する時期を挟んだ。2世紀から4世紀までである。
もっともただ中国と交流しなかったから「輝かしい」のではない。この時期に国土の大統一があり、強力な王が登場したから輝かしい時代なのである。
この強力な王達は神話になった。しかしこの神話は、日本の在り方として都合が悪かったため、各天皇に分散され、隠ぺいされたと、私は考えている。

本当に『記紀』は、各天皇の事蹟を伝えていないのか?
もう少し検証してみよう。
雄略紀などに、「呉」という国が出てくる。研究者はこれを中国の南朝のことだとする。そして「呉」の朝貢(日本が「呉」に朝貢したのではなく、「呉」が日本に朝貢したと書かれている)を、「倭の五王」の朝貢として研究している。
しかし、「倭の五王」の時代に、「呉」という国はないのである。中国の「呉」は紀元前の春秋・戦国時代と、三国時代にしかない。
倭の五王」が朝貢したのは東晋、宋、南斉、梁である。
記紀』は百済新羅高麗高句麗)をその国の表記のままで記述し、隨、唐なども「呉」のような非公式な通称を用いて書いたりはしない。だから「呉」は南朝ではない。
「呉」が何なのかは、今回は述べない。このシリーズを通して読んできた読者は、「呉」が何かわかるかもしれない。とにかくここでは、『記紀』は歴史を書いていないことを確認しておく。

『書紀』が隨、唐を正式な国号で記述しているのは、『隋書』にある多利思比孤(タリシヒコ)の存在によるところが大きいだろう。研究者がタリシヒコを聖徳太子だとして研究しているが、『記紀』がタリシヒコを聖徳太子と合致させて記述している可能性は高いと思う。しかし聖徳太子の事蹟がタリシヒコのものである可能性は低い。
それでも『書紀』が中国を「隨」と表記したのは、「日出処の天子」と称し、対等の外交関係を築こうとしたタリシヒコがいたからこそだろう。とすれば、聖徳太子が神話と歴史の結接点になっている可能性は高い。
次回は、飯豊皇女の話に戻ろう。


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