「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(22)~聖徳太子について

シリーズ第一回目から読みたい方はコチラ↓

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前回、聖徳太子のことに触れると述べたが、聖徳太子については私も本格的に研究できておらず、あるのは漠然とした仮説のみである。

古代史研究家の関裕二氏の本は、2000年代によく読んでいた。関氏は当時、一ヶ月か二ヶ月ごとに本を出していた。200ページ程度の本で、内容も他の本で述べたことの繰り返しが多く、イロモノという印象が強かった。
当時、古代史について素人だった私(今も素人だが)にとって、古代史の本は関氏程度で良かった。イロモノと言っても、関氏は何かを掴んでいると思っていたから、関氏のイロモノじみたところはそれほど気にしなかった。
その関氏が、天武天皇聖徳太子の子だと主張したことがあった。
『書紀』によれば、聖徳太子の没年は推古二十九年(621)で、他の「太子本」と言われる文献では推古三十年(622)となっている。
天武天皇の生年は、『書紀』には一切記述がない。
しかし、鎌倉時代以後に成立した『皇年代略記』は、天武の生年を推古三十一年(623)としている。『皇年代略記』によれば、天武は兄の天智天皇より3歳年上になる。また『一代要記』、『本朝皇胤紹雲録』は天武の享年を65歳としており、没年から逆算すると生年は推古三十年(622)となる。
これが天智・天武非兄弟説の重要な根拠になっているのだが、関氏は天武の生年を推古三十一年として、推古三十年に死んだ聖徳太子の子だと、著書『天武天皇 隠された正体』で主張したのである。

その後、関氏は「聖徳太子天武天皇は何らかの関係がある」と主張するに止まり、天武を太子の子だと言わなくなったが、私は惜しいことだと思った。私は、関氏の主張をもう少し説得力のあるものにすることができるからである。

『書紀』の聖徳太子の死んだ日と、一日違いで死んだ天皇がいる。
それは仲哀天皇で、死亡日は二月六日である。『書紀』には「二月五日に病気になられ、翌日はもう亡くなられた」と書いてあるから、二月五日、つまり太子と同じ日に死んだ可能性も有りそうな記述である。実際作家の井沢元彦氏は、仲哀天皇の死亡日を二月五日と、『逆説の日本史2』に間違えて書いている。
そして井沢氏は『逆説の日本史2』で、仲哀の子の応神天皇が十二月十四日に生まれていることから、昔は妊娠から十月十日で出産すると信じられていたため、ぎりぎりで応神は仲哀の子になるとし、『書紀』は仲哀と応神を無理矢理繋げたと主張した。
井沢氏の主張は、むしろ仲哀と応神が親子でないことを前提とするものだが、私は逆に、これが『書紀』の主張であると同時に、歴史的事実である可能性が高い主張だと考えている。十月十日で出産するという昔の信仰に基づいた『書紀』の主張は神話的に捉えるべきで、可能性が低いから事実でないと退けるべきではない。つまり新羅征伐中に神功皇后が出産しそうになり、「腹を石で冷やして出産を遅らせた」とする『古事記』と『書紀』の主張は違うのである。仲哀と応神の関係については『古事記』の方が怪しく、『書紀』の方が確かな親子だと見るべきである。この場合、『記紀』の間で仲哀と応神は本来無関係であり、その無関係な二人を親子にするという合意があったと見るべきである。仲哀と応神の関係については、後々書いていくだろう。

この仲哀と応神の関係から、聖徳太子天武天皇の関係を見てみよう。
『書紀』以外の「太子本」では推古三十年の二月二十二日に太子は死んだことになっている。
これに十月十日を足すと、推古三十一年になる。つまり天武天皇の生年になり、太子と天武は親子になる。

聖徳太子について、もう少し話を続ける。
聖徳太子の死と相前後して、母の穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女が亡くなっている。そしてこの三人は1つの墓に葬られた。
多くの太子本では、この三人がほぼ同時期に死んだことが強調されている。それはなぜだろうか?
太子の母は鬼前太后(かむさきのおおきさき)などの異様な名称で記述されていることがある。また『聖徳太子伝暦』には、太子と菩岐々美郎女の心中を暗示するような記述もある。
さらに『上宮聖徳法王帝説』では、太子とその母とその妃が死んだことを強調する記述があることを、関氏が著書『聖徳太子蘇我入鹿である』で述べている。『上宮聖徳法王帝説』は平安時代の文献で、三人が生きているはずがないのに、三人が死んでいるのを強調するのは異様である。

元興寺縁起』に、「大々王」という謎の人物が登場する。
私はこの文献を見て不審に思ったことがある。それは「大々王」と敏達天皇の皇后(つまり推古)が「共にいた」とする記述があることである。
関氏は、「大々王」を太子の母だと論証している。とすればこの記述はおかしい。
通い婚が一般的な当時、母が違う二人が「共にいる」ことはありえない。(太子の母と推古の二人の母が、同じ蘇我氏の出身だとしてもである)
だから私は、これを太子の母と推古が同一人物であると考えた。
また菩岐々美郎女の存在は、私の中では太子の死を悼んで「天寿国曼荼羅繍帳」を作った、推古の孫で太子の妃の橘大郎女とかぶっている。私はこのことから、菩岐々美郎女と橘大郎女が同一ではないかと考えている。
そして太子の母と妃が強調される理由ははっきりしないが、可能性として、近親婚があったのではないかと思っている。聖徳太子が母と近親婚をし、女子が生まれ、その女子と太子が近親婚をして生まれたのが天武天皇ではないかと考えている。

以上の話は研究途上で、将来的に考えを変更する可能性もある。
それでも今回聖徳太子について述べたのは、前々回に推古天皇について触れたからである。
ここで読者は異様に思うだろう。
このシリーズは、2世紀から3世紀の時代を扱っているはずである。しかし聖徳太子は7世紀の人物である。この間四五百年の開きがある。なぜこんなに時代が飛ぶのだろうか。
この問題に答える仮説が、私にはある。次回はその仮説について述べよう。


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