「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である⑦~「人垣を立て」た王ヤマトヒコと「暗殺者」ヤマトタケル

今後の便宜のために、私がヤマトタケルの本体であると主張している開化天皇を、ヤマトタケル=開化としよう。
ヤマトタケル=開化がどのような人物だったかは想像の域を出ないが、おそらく知謀に優れ、勇猛で利己的で、残忍な人物だったのだろう。
残忍だったと想像するのは、多少の根拠がある。それは倭日子(ヤマトヒコ、『書紀』では倭彦)の伝説である。
記紀』に登場する多くの人物の例にもれず、ヤマトヒコには事歴がない。しかしヤマトヒコが死んだ後に書かれていることが異様である。
古事記』には、
「この王(みこ)の時に、始めて陵(はか)に人垣を立てき」
とある。人垣とは何かとは、『古事記』には書かれていない。『書紀』には、
「近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋め立てた(講談社学術文庫宇治谷孟訳)」とある。人垣とは人を生きたまま埋めることである。
しかし、『記紀』には矛盾がある。「古事記』には「この王の時に、始めて」とあるのに、『書紀』には「古の風」とし、以後埴輪を作って人垣の代わりにしたと書かれている。『古事記』はヤマトヒコから人垣が始まったとし、『書紀』はヤマトヒコを人垣の最後とする。「神話的矛盾」である。
この「神話的矛盾」を解く方法は、ひとつしかない。人垣を立てた人物はヤマトヒコしかいないのだ。
考古学の世界では現在まで、古墳から生き埋めにされた遺骸が出土したことないという。天皇陵だけは調査できないが、私は天皇陵からも、生き埋めにされた人骨が出てくることはないと思っている。このことは、私が人垣を立てた人物がヤマトヒコしかいないと考えているのと符合する。
そしてヤマトヒコが、ヤマトタケル=開化の分身であると、私は考えている。

次に、『古事記』からヤマトタケルの性格を見てみよう。
ヤマトタケルの父景行天皇と、ヤマトタケルの兄大碓命が、ある事件によって関係にひびが入り、大碓命は景行の元に参上しなくなった。
ある日、景行は小碓命ヤマトタケル)に、
「何とかも汝(いまし)の兄は朝夕の大御食に参出来ざる。専ら汝ねぎ教へ覚せ」と命じた。ねぎ(ねぐ)とは、相手の心を慰め和らげて願うことである。
それから数日経っても、大碓命は景行のもとに参上しなかった。景行はヤマトタケルに、「もし未だ誨(をしへ)ずありや」と尋ねると、
「既にねぎつ」
と答えた。
どのように言ったのかと問うと、
「朝曙に厠に入りし時、待ち捕へつかみ批(う)ちて、その枝を引き闕(か)きて、薦につつみて投げ捨てつ」
と、ヤマトタケルは答えた。
景行は、ヤマトタケルの「建く荒き情(こころ)を惶(かしこ)みて」、ヤマトタケル熊襲建(クマソタケル)の征討を命じる。失敗してヤマトタケルが死んでも、むしろ好都合ということである。
ヤマトタケルは少女の姿に変装して、クマソタケルの館の新築祝いの宴に潜入した。
クマソタケルは二人の兄弟で、二人はヤマトタケルを見て自分達の間に引き寄せた。
宴もたけなわの頃、ヤマトタケルは隠し持っていた剣を取りだし、クマソタケルの兄弟を刺し殺した。その時、弟のクマソタケルからヤマトタケルの名を貰い、以後ヤマトタケルと名乗るようになった。
クマソ征討の帰りに出雲に入り出雲建(イヅモタケル)を殺そうと思って、イヅモタケルと親しく接した。そして 赤檮の木で「詐りの剣(木刀)」を作り、イヅモタケルと剣を交換し、「いざ刀合はせむ」と言って戦うと、イヅモタケルは剣を抜くことができず、ヤマトタケルに殺された。
大和に戻ると、今度は東国の平定を景行に命じられる。
ヤマトタケルは東国に向かう途中で伊勢に寄り、叔母の倭比売(ヤマトヒメ)に「天皇既に吾を死ねと思ほすゆえか」と泣きついている。

私は、ヤマトタケルにそっくりな性格の、歴史上の人物を知っている。
それは、岡田以蔵である。
さらにいえば、ヤマトタケルと景行の関係は、以蔵と武市半平太の関係とそっくりである。
以蔵は人の命の重さを考えること、相手の人格を重んじることがほとんどない。
以蔵の評価基準は単純で、自分達のグループのリーダーの評価(この場合は土佐勤王党武市半平太)を受けるのが、自分の価値を上げることだと思い込んでいる。
半平太は以蔵を重用しながらも、その単純で底の浅い性格を憎み、あわよくば任務に失敗して、以蔵が死んでくれるのを望んでいる。
以蔵の悲劇は、自立心が完全に欠落していることである。
半平太の評価を受けている時は調子が良いが、土佐勤王党が崩壊すると覇気を失い、土佐藩に逮捕され拷問を受けると、簡単にそれまでの罪を自白した。
ヤマトタケルも、景行が自分の死を望んでいると覚ると、弱さを見せて叔母に泣きつくが、ならば父親から自立しようとは思わない。
蛮勇を誇示しながらも、孤立すると脆いのは、古今を問わず、暗殺者の特徴のようである。
そして『古事記』のヤマトタケル像は、このような暗殺者達をモデルに作り上げたようである。
つまり私が言おうとしているのは、『古事記』のヤマトタケルは英雄として称揚されているのではなく、偏頗な性質の暗殺者に描いて貶められているということである。
しかしこの『古事記』のヤマトタケルの描写にこそ、ヤマトタケルに対する矛盾した感情が読み取れるのである。

『書紀』には、大碓命殺しもイヅモタケル殺しもない。
『書紀』では、ヤマトタケルは河上梟師(カワカミタケル)を暗殺するだけで、「古事記』ほど人格破綻した印象はない。
しかしそれでも、『書紀』はヤマトタケルを貶めているのである。
『書紀』では、出雲は崇神天皇の時に、熊襲景行天皇の親征により征服されている。ヤマトタケルの東国遠征も、『古事記』のような「神話的矛盾」は用いずに、東国に反乱の兆しありとしてヤマトタケルに遠征を命じている。
つまり、『書紀』のヤマトタケルは、人格的に特徴のない内乱鎮圧者なのである。征服による国家形成者と、内乱鎮圧者では、国家形成者の方が当然重んじられる。
古事記』はヤマトタケルを、偏頗な暗殺者として描きながら、日本を造ったヤマトタケルに憧れを抱いていた。
ならば、クマソタケルとイヅモタケルの二人を殺した意味は何か。私はこれを「習合」と見る。
殺すことが「習合」なのである。しかしいくら神話的世界でも、単に殺しただけで「習合」はしない。
たとえばギリシャ神話のヘラクレスは獅子を退治したが、矢を通さない獅子の皮を剥いで、頭から被って鎧として用いた。もっともこれは良くない例で、ヘラクレスと獅子が「習合」したというより、元々ヘラクレスが、獅子の姿をしたトーテムだったと見た方が妥当である。
しかしクマソタケルは、殺した相手に自分の名前の「タケル」を送っている。そうして「ヤマトタケル」と名乗った殺人者が、「イヅモタケル」を暗殺する。これは熊襲と出雲の二人の「タケル」がヤマトタケルに「習合」したととれる。
そして、ヤマトタケル=開化は、熊襲と出雲のどちらの勢力の出身者でもない。次回は、熊襲でも出雲でもない第三の勢力の存在を明らかにしていく。