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「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である④~『日本書紀』は『古事記』を解体する

シリーズ第一回目から読みたい方はコチラ↓

sakamotoakiraf.hateblo.jp

日本書紀』(以下『書紀』と略す)はの『神代』は、本文と複数の異説から成り立っている。『人代』もしばしば異説が挿入されており、この点、ひとつの物語を紡いで成立した『古事記』と比べて、メッセージ性が弱く感じられる。
しかし『古事記』のように「真実」を語るのではなくとも、『書紀』には『書紀』の主張がある。それは決して両論併記のように様々な見解があるというものではなく、『古事記』と本文を会わせながら、異説の羅列により『古事記』のメッセージを解体し、解体したうえで自分達の主張を述べている。少なくとも私にはそう見える。
それが一番よく表れているのが、伊邪那岐イザナギ。『古事記』の表記、『書紀』は伊弉諾)の黄泉の国訪問である。
古事記』を見てみよう。
火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ、カグツチ)を産んで陰部の火傷で死んだイザナミを慕い、黄泉の国を訪れたイザナギは、現世に帰るようにイザナミを説得するが、イザナミは「黄泉戸喫(ヨモツヘグイ、黄泉の国の食べ物を食べること)をしてしまった。黄泉神と相談するから、その間私を見てはならない」と言って御殿の中に入った。
しかしイザナミはなかなか出て来ない。待ちきれなくなったイザナギは、御角髪(みかづら)に挿したゆつつま櫛の太い歯を一本折り取って、櫛に火を灯し、御殿の中に入って中を見た。するとイザナミの身体には蛆がたかり、頭に大雷胸に火雷、腹に黒雷、陰部に咲(裂)雷、左手に若雷、右手に土雷、左足に鳴雷、右足伏雷、合わせて八種の雷神が成り出ていた。
イザナギは驚いて逃げ帰ったが、イザナミは「吾に辱(はぢ)見せつ」と言い、ヨモツシコメにイザナギを追いかけさせた。髪に着けていた黒い鬘を取って投げ捨てると、たちまち山ぶどうの実が成り、これをシコメたちが食べている間に、イザナギは逃げのびた。さらにシコメたちが追ってくると、イザナギは御角髪に刺している爪櫛の歯を折って投げ捨てると、それが筍になり、筍をシコメたちが食べている間に、イザナギは逃げのびた。
すると、イザナミは今度は「八(やくさ)の雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(ヨモツイクサ)を副へて」追いかけさせた。イザナギは十拳剣を抜いて、うしろ手に振りながら逃げた。そして黄泉比良坂のふもとにやってきた時、イザナギは、そこに成っていた桃の実三つを取って投げつけたところ、黄泉軍はことごとく退散した。
「お前が私を助けたように、葦原の中国(アシハラノナカツクニ)に生きている現世の人々が、つらい目に逢って苦しみ悩んでいる時に助けてくれ」と言って、桃の実に意富加牟豆美(オホカムヅミノ)命と名付けた。
最後に、イザナミ自身が追いかけてきた。イザナギは千引の岩を黄泉比良坂に据えて、岩を挟んでイザナミと向き合った。
「愛(うつく)しき我がなせの命かくせば、汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」
イザナミが言うと、イザナギは、
「汝然せば、吾一日に千五百の産屋立てむ」
と言った。こうして一日に千人が死に、千五百人が生まれることになった。
そしてイザナミ黄泉津大神と呼ばれ、イザナギに追い付いたことから、道敷大神とも呼ばれるようになった。また黄泉比良坂を塞いだ岩は千返大神と名付けられた。
黄泉比良坂の場所は、出雲国の伊賦夜坂であるという。

次に、『書紀』を見てみよう。
『書紀』は、本文が『古事記』とほぼ同じであり、それは日本神話の形成において、『古事記』が主導権を握っていることを示している。
ところが、イザナギの黄泉の国訪問のくだりは、『書紀』の本文にない。「一書(あるふみ)にいう」という異説の六番目にある。つまりイザナミカグツチを産んで、イザナギが黄泉の国を訪れ、黄泉の国から帰ったイザナギが禊をする部分までが、まるまる異説扱いになっている。これは相当に異例である。
『書紀』のイザナギの黄泉の国訪問は、『古事記』とほぼ同じ内容ながら、細部において違う。その違いは、
イザナミの身体から八種の雷神が産まれない。従って雷神が千五百の黄泉軍を率いる記述もない。
②ヨモツシコメが泉津日狭女
(ヨモツヒサメ)になっている。
イザナギが桃を投げる記述がなく、イザナギが放尿すると、それが川になり、ヨモツヒサメがこの川を渡ろうとする間に、イザナギは黄泉比良坂に着いた。とある。
④黄泉比良坂でイザナギが投げた履を道敷神としている。
⑤黄泉比良坂を場所ではなく、人が死に臨んでいる時のこととしている。
⑥千引の岩を道返大神としている。
イザナミ黄泉津大神としていない。
が『古事記』との違いである。

以上の違いが何を意味するのかを、私も全て分かってはいない。
しかし、以上の記述の差異から、多少読み解けるものはある。
まず①と③は、別の異説第九に記述がある。その記述は黄泉の国ではなく、イザナミの殯(もがり)の時である。殯とは遺体を長期間安置する、古代の葬送儀礼である。
場所は違っても、「私を見ないでください」とイザナミが言うのと、イザナギが火をつけて見るのは同じである。
するとイザナミの身体は膨れ上がり、八種の雷神があった。イザナギが逃げると、雷神が追ってきた。イザナギは桃の木があったので、桃の実を雷神に投げつけると、雷神たちは逃げて行った。
⑦については、異説第十に記述がある。黄泉比良坂でイザナギイザナミが言い争う場面が、人を殺したり産まれるようにする話ではなく、「私はあなたともう国を生みましたどうして更にこの上生むことを求めましょうか。私はこの国にとどまってご一緒には参りません(宇治谷孟訳、原文無し)とイザナミが言う。
すると、菊理媛神(ククリヒメノカミ)と言う神が突然表れ、イザナギに何かを言う。その内容は書かれていない。

以上の記述から、まず『書紀』は、雷神を黄泉の国から離そうとしていること、そしてイザナミ黄泉津大神となり人に災いを為す神とするのを避けているのが読み取れる。異説第十で、イザナミは人を殺すと言っていないし、ククリヒメの言った言葉とは、ここでイザナミが言うはずだった「一日に千人殺す」なのだろう。
「一日に千人殺す」と言うことで、イザナミは人に災いを為す黄泉津大神となる。さしづめ冥王と言ったところである。

『書紀』と比べて、『古事記』は明確な善悪の基準がある。
スサノヲが母を慕い、「根のの堅州国に罷らむと欲ふ」と述べ、根の国に行く。
根の国と黄泉の国は、同じようで違う。根の国は黄泉の国に近いが、別の場所である。根の国に住まうスサノヲは、冥王であるイザナミの権威を受けた魔王と言った存在で、スサノヲの権威を受けて、大国主が地上に悪の王国を築く。
しかしこの善悪には、ねじれがある。スサノヲ、大国主イザナミの権威を受けているが、イザナギの禊によって産まれたスサノヲとその子孫の大国主は、イザナギの血統のみを受けた正統な王朝である。このねじれによる正統性の暗示から、私は『古事記』を作成した勢力が、出雲の勢力ではないかと考えている。
また『古事記』には、イザナギの黄泉の国訪問の箇所以外に、雷神が登場する所がない。強いて言えば建御雷(タケミカヅチ)がいるが、タケミカヅチは雷を出さない。
古事記』を作成した勢力には、基本的に雷神がおらず、雷神を出雲に取り込むためにイザナミの身体から雷神が産まれたことにしたと考えている。そしてイザナミ黄泉津大神であることを否定する『書紀』の勢力にとって、イザナミが重要な神であることが見えてくる。

しかし自らを悪の系譜とする『古事記』の勢力は、例えねじれによって正統性を担保したとしても、むしろ悪に強い魅力を感じているように感じられる。
そのことは、大国主の国譲りと神武東征という二つの「国譲り」の『古事記』と『書紀』の記述の違いからも読み取れるのである。


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