「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である③~オオゲツヒメ殺しから「真実」を読み解く

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前回、開化天皇が母子相姦をしていたことを明らかにした。
その開化天皇がなぜヤマトタケルなのかを説明する前に、私の神話についての考え方を述べておこう。神話についての考え方を述べて、それから『古事記』、『書紀』の違い、特に国家理念の違いを明らかにしていく。

もし読者の中で、人類が文字を手に入れることで、神話から歴史に以降したと考える方がおられるなら、それは厳密には違う。
日本では卑弥呼の時代、いや後漢光武帝から「漢委奴国王」の金印が贈られた西暦57年には、既に文字を知っていた。なぜなら漢字、漢文とは書くための言葉であり、話すための言葉ではない。漢字は言語の異なる人々が意志疎通をはかるための言語である。だから当時の日本人は、中国に朝貢した時、漢文を書いて中国人と意志疎通をしていた。
おそらく、「漢委奴国王」の金印を貰うよりはるかに昔から、日本人は文字(漢字)を知っていただろう。
だから当時、日本人は歴史を記そうと思えばできた。しかし日本人はそれをせず、神話を口承で伝えてきたのである。その理由は書き記すことにより、神話が歴史に変わるのを恐れたからである。
神話と歴史の違いは、歴史が事実を元にした物語であるのに対し、神話は事実そのものをしばしばねじ曲げていることである。中には事実が反映された部分もあるだろうが、神話がどこまで事実を反映していて、どこから事実をねじ曲げているかの判断は難しい。

例えば中国の殷王朝は、最近の研究では少なくとも二つの氏族、多くて十の氏族からなっていた。その複数の氏族が今まで一つの氏族であるように伝えられていた。
殷 - Wikipedia「歴史」の項目を参照)
殷王朝のように、複数の氏族を一つの氏族として後世に伝えることは、古代にはよくあることだった。日本でも、水野祐の三王朝交替説に見られるように、天皇家が万世一系でなく、王朝の交替があったことは、今や定説になりつつある。しかし複数の氏族を、一つの氏族とすることの意味については、語られることはない。
複数の氏族を合わせて一つの王朝にすることは、自らの祖先に対する裏切りである。
一つの氏族で王朝を形成できないのは、それだけ王の力が弱いからであり、他の氏族とは、おそらく殺し合いの歴史を持っている。その殺し合った氏族と系譜を繋げ、時には殺した人物と殺された人物を習合して一人の人物として後世に伝える。
古代人にとって、血統に基づく身分は重要なアイデンティティーだった。身分によるアイデンティティーは、中世の王族達より重要だったかもしれない。古代の王族達の血統は、神々に繋がっていたからである。祖先が神であるというのも偽装なのだが、王族達は数々の虚構を造った果てに、その虚構を本気で信じていた。また信じずには生きられなかった。
複数の氏族の系譜を繋げるのは、自らのアイデンティティーに根本的な疑問をもたらした。このような神話の形成には、世界の多くの地域で、男系社会から女系社会へ移行したことが関係している。
人類の歴史が始まった時、全ての社会は女系社会だった。女系社会の時点では、国家は小さな部族国家、都市国家の域を出なかった。しかし人類の起こす戦争は、時代が下るにつれて激しさをましていった。戦争が激しくなるにつれて、戦争により多く従事する男性が力を持ち、男系社会に移行し、世界の多くの地域で広域国家が出来上がった。
女系社会の時は、王、つまり神々の家系は、女系で伝えられていた。しかし男系社会が形成されるにつれて、女系で伝えられた神々の血統は、男系のそれに切り替えられた。このことが神の子孫を名乗る王達の、アイデンティティーを激しく揺さぶったのは想像に難くない。自らの血統に対する疑問、そして祖先を偽ったことへの良心の疚しさが、神話に新たな力をもたらした。すなわち事実を神話に盛り込むのではなく、神話に「真実」を盛り込んだのである。
「真実」とは人間のありのままの姿である。従軍慰安婦問題で、日本側から強制連行があったという証言は、戦後70年たった今でも出てこない。だから従軍慰安婦の強制連行あったという「歴史的事実」は、未だ立証に至っていない。しかし70年間立証されない従軍慰安婦問題が未だに存在するのは、実に多くの者、それも韓国人ではなく日本人がその「歴史的事実」を「真実」だと思わないからである、戦争の姿はそして我々人間の姿はもっと醜いはずだ。そのように我々自身が思うから、我々は従軍慰安婦問題を「解決」としないのである。
神話を読み解くにあたり、我々はそこに「歴史的事実」を見るより先に、「真実」を汲み取るべきである。もとより神話から完全に歴史を復元することは不可能だが、汲み取られた「真実」は「歴史的事実」を復元するよすがになるだろう。

それでは日本神話を読み解くにあたり、『古事記』から見てみよう。『書紀』のように複数の異説を盛り込んだ、両論併記的な『書紀』と異なり、異説のない『古事記』は、『書紀』と比べて極めて文学的であり、「大きな物語」を形作ろうという気概に溢れている。「大きな物語」によって、日本民族を形成しようという意識を、『古事記』の作者は、『書紀』の編纂者より強く持っていた。そう私は見ている。
その『古事記』の提示する「真実」が最高潮に達しているのが、須佐之男(スサノヲ)の大気都比売(オオゲツヒメ)殺しの話である。
狼藉を働き、高天原を追放されたスサノヲがオオゲツヒメに食物を乞う。するとオオゲツヒメは鼻、口、尻から様々な食物を取り出し、スサノヲに差し出した。
スサノヲはそれを見て、「穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るとおもひて」オオゲツヒメを殺した。そして死んだオオゲツヒメの体から、頭に蚕目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦が生まれた。
同じような話は『書紀』にもあるが、『書紀』ではスサノヲが月夜見(ツクヨミ)にオオゲツヒメ保食神ウケモチノカミ)になっている。ウケモチノカミは、陸に向かうと口から米の飯を出し、海に向かうと魚を出し、山に向かうと毛皮の動物を出した。
「口から出したものを、私に食べさせようとするのか」とツクヨミは怒り、ウケモチノカミを殺した。
そのことを天照大神に述べると、「お前は悪い神だ。もう会いたくない」と言って、昼と夜に別れて暮らすようになった。
オオゲツヒメウケモチノカミ殺しの神話はハイヌウェレ型神話と呼ばれるもので、主に女性の殺害、犠牲により穀物が生じる内容の穀物起源神話である。
ハイヌウェレ型神話 - Wikipedia参照)
日本以外には、アメリカ大陸やインドネシアメラネシアポリネシアなどに見られる。女性の体から出た不浄物が食物や高価な物であることと、それが原因でその女性が死ぬことが、ハイヌウェレ型神話の特徴である。
人によっては、いや多くの人が、スサノヲのオオゲツヒメ殺しより、ツクヨミウケモチノカミ殺しの方が受け入れやすいと思うだろう。しかし、私は『書紀』のウケモチノカミ殺しより、『古事記』のオオゲツヒメ殺しの方に強く惹かれるのである。
『書紀』の話は、ツクヨミ天照大神に嫌われることと、日と月が昼夜に別れる起源の説明になっていることで、読者に「納得」を与える。「納得」した読者は、それ以上の思考をしなくなる。
しかし『古事記』のオオゲツヒメ殺しは、不浄物を食物として供与したオオゲツヒメを非とすべきか、食物を与えた者を殺したスサノヲを非とすべきか、大いに読者を悩ませる。ハイヌウェレ型神話は大抵、殺される女性に同情できる要素をストーリーに盛り込んでいるが、『古事記』のオオゲツヒメ殺しには、それが全くない。
ハイヌウェレ型神話には、有史以前の女系社会における、男の女性への隠れた憎悪が主題となっている。
女系社会では、女性はしばしば複数の男と関係を持ち、自らの血を引かない子を産んだ。生まれた子の父親が、誰かわからないこともしばしばだった。
一方、女性はその多産からの連想で、豊穣のイメージを持っていた。男は、豊穣のイメージを持つ女性を崇めた。崇めながら、女性を憎悪した。豊穣の女神である土偶は、ほとんどが破損した姿で発掘される。土偶は破壊するために造られたのである。
ハイヌウェレ型神話のほとんどが、殺される女性に同情できる要素を盛り込むのは、男が自らの中にある、女性への憎悪を隠そうとするからである。『古事記』の凄味は、「真実」を語るにあたり隠蔽を徹底的に拒絶していることである。
しかもスサノヲは、オオゲツヒメを殺した後、出雲でヤマタノオロチを退治して英雄になる。殺人者が英雄になるのである。隠蔽の拒絶により紡がれるストーリーの不条理さは、ギリシャ神話にしばしば匹敵し、オオゲツヒメのくだりは、バビロニア神話の神々の母であり、最高神だったティアマトを、その孫であるマルドゥクが殺し、死んだティアマトの体から世界が造られたストーリーに、限りなく近づいている。
古事記』がハイヌウェレ型神話に端を発しながら、ギリシャバビロニアの神話に近づくのは、日本という広域国家を形成するにあたり、その最大の阻害要因となっているのが女系社会であることに、強い自覚を持っていたからである。つまり国家を形成する意識において、『古事記』を造った勢力は、少なくとも女系社会への疑念という点では、『書紀』を編纂した勢力より勝っていた。そしてまた、そのような「真実」を盛り込めるのも、その「真実」を語ることが、『古事記』を造った勢力にとって都合がいい可能性が高いことも留意しなければならない。
しかし神話の主張は、「歴史的事実」より「真実」の方が、むしろ語りやすいのである。また「真実」は、それを見る者にダイレクトに響く。だから神話には、「歴史的事実」よりも、「真実」が多く盛り込まれているのである。

次回は『古事記』と『書紀』の違いについて述べていく。


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