「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(42)~平群志毘と目弱王

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吉備品遅部雄鮒に該当しそうな人物として、平群志毘が挙げられる。
古事記清寧天皇条で、顕宗天皇が即位する前に、菟田首の娘の大魚(おふを)を巡って志毘と争い、顕宗が志毘を殺す。『書紀』ではこの争いは、武烈天皇平群鮪(志毘)との争いになっており、大魚も物部麁鹿火の娘、影媛になっている。
『書紀』の話は、また後にしよう。
鮪とは小魚であり、大魚との関係は親子関係を暗示していると解釈できる。しかし魚であっても、鮒と特定はできない。
『書紀』では、「影媛は真鳥大臣の子の鮪に犯されていた。」とあるが、『古事記』では、志毘と大魚の性的関係は記載されていない。

平群臣の祖、名は志毘臣、歌垣に立ちて、その袁祁命の婚はむとしたまふ美人(をとめ)の手を取りき。

 

とあるのみである。また顕宗の歌に、

塩瀬の 波折りを見れば 遊び来る 鮪が端手に 妻立てり見ゆ
(潮の流れる早瀬の、波が幾重にも折重なって立っている所を見ると、迷いこんで来た鮪のひれのところに、妻が立っているのがみえる。)

 

とある。平群志毘が鮪なら、『古事記』も平群鮪と表記するだろう。また顕宗は、大魚を妻と言っている。
また、

大魚よし 鮪突く海人よ しがあれば 心恋(うらごほ)しけむ 鮪突く鮪
(鮪を銛で突く海人よ、その鮪が遠ざかって言ったら、さぞ恋しいことだろう。鮪を突くシビノ臣よ)

 

と顕宗が歌っている。訳は次田真幸の訳をそのままのせたが、「鮪突く鮪」と後の方の鮪を平群志毘と解釈できない以上、鮪はむしろ顕宗のことである。
吉備品遅部雄鮒に一番近いのは、顕宗である。

他にも鮒や魚に関する名前は『記紀』に登場するが、その紹介は後回しにしよう。
魚を離れて、次に安康天皇を殺した目弱王の記事を紹介しよう。
目弱王は大日下王と長田大郎女の子で、安康が大日下王を殺し、長田大郎女を皇后とする。
しかし七歳の時、安康が父を殺したのを知り安康を殺す。その後都夫良意富美(つぶらおほみ)の家に逃げるが、大長谷王子(後の雄略)にその家を軍勢で囲まれ、都夫良意富美と共に死んだと言う。
果たしてそうか。『古事記』を見てみよう。


ここにその殿の下に遊べる目弱王、この言を聞き取りて、すなはち天皇の御寝しませるを窃かに伺ひて、その傍の太刀を取りて、すなはちその天皇の頸を打ち斬りて、都夫良意富美の家に逃げ入りき。

 

とあり、確かに都夫良意富美の家に逃げている。しかし、雄略が軍を興すと、

また軍を興して都夫良意美の家を囲みたまひき。

 

と、都夫良意富美が都夫良意美になっている。

ここに都夫良意美、この詔命を聞きて自ら参出で、佩ける兵を解きて、八度拝みて白さく、
「先の日問ひたまひし女子、訶良比売は侍はむ。また五処の屯宅(みやけ)を副へて献らむ。しかるにその正身(ただみ)参向はざる所以は、往古より今時に至るまで、臣連の王の宮に隠ることは聞けど、未だ王子の臣の家に隠りまししことは聞かず。是を以ちて思ふに、賤しき奴意美は力をつくして戦ふとも更に勝つべきこと無けむ。然れども、己を恃みて陋(いや)しき家に入り坐しし王子は、死ぬとも棄てまつらじ」とまをす。
かく白して、またその兵を取りて還り入りて戦ひき。ここに力窮まり矢尽きぬればその王子に白さく、「僕は手ごとごとに傷ひ、矢もまた尽きぬ。今は得戦はじ。如何にせむ」と目をしき。その王子答えて詔りたまはく、「然らば更に為むすべなし。今は吾を殺せよ」とのりたまひき。かれ、刀を以ちてその王子を刺し殺し、すなはち己が頸を切りて死にき。

 

ここに登場する「王子」は、一度も目弱王と呼ばれていない。しかも「王子」と呼ばれた人物は、『古事記』では即位前の雄略以外には見当たらない。
目弱王は殺されていない。
目弱王は何者か?
次回、海幸山幸神話から検証する。

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ヤマトタケルは開化天皇である(41)~「佐耶岐」と大雀太子

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古事記応神天皇条で、応神天皇が子の大山守命と大雀命(仁徳)に訪ねる場面がある。

ここに天皇、大山守命と大雀命に問ひて詔りたまはく、「汝等は、兄の子と弟の子と孰(いづ)れか愛(は)しき」とのりたまひき。天皇この問を発したまひし所以は、守遅能和紀郎子に天下治らさしむの心ありつればなり。ここに大山守命、「兄の子ぞ愛しき」と白(まを)したまひき。次に大雀命は、天皇の問ひ賜ひし大御情を知らして白(まを)したまはく、「兄の子は既に人と成りぬれば、これいぶせきこと無きを、弟の子は未だ人とならねば、これぞ愛しき」とまをしたまひき。
ここに天皇詔りたまはく、「佐耶岐(さざき)、吾君(あぎ)の言ぞ我が思ふが如くなる」とのりたまひて、即ち詔り別けたまはく、「大山守命は山海の政せよ。大雀命は食国の政を執りて白したまへ。宇遅能和紀郎子は、天津日継を知らしめせ」とのりたまひき。かれ、大雀命は天皇の命に違ひたまふことなかりき。

 

仁徳は応神の命に従って、皇位を求めなかったと記述されている。
ところが、この後髪長比売のところになると、仁徳は大雀太子と呼ばれている。宇遅能和紀郎子が皇太子になったはずなのにである。

ヤマトタケルは開化天皇である(40)~訂正①・石之日売の正体 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で、宇遅能和紀郎子が仁徳だと述べたが、『古事記』で「佐耶岐」と呼ばれたのが宇遅能和紀郎子で、この時宇遅能和紀郎子は、大雀命と習合したと解釈できる。
もっとも、宇遅能和紀郎子の「宇」が「守」になっている。
これが誤記でないなら、「守」遅能和紀郎子は大山守である。大山守が「佐耶岐」と呼ばれ、大雀である仁徳と合わさったとも解釈できる。
どちらにせよ、今回この大雀命について訂正するつもりだったが、ひと月の間に考えが戻ってしまった。

ヤマトタケルは開化天皇である(32)~「大鷦鷯」はミソサザイ、「大雀」はすずめ - 「人の言うことを聞くべからず」+

で「雀は雀」と述べたが、「佐耶岐」が「雀」を指すと一度考え直した。しかし今は「雀」は元々「雀」であり、鷦鷯ではないと思っているので、今回訂正はない。

これだと話が短いので、次回するつもりだった話をしよう。
古事記』では、謀反を起こした速総別と女鳥王を、山部大盾が殺す。
その際、山部大盾は女鳥王の手の玉釧(たまくしろ)を取って自分の妻に与えた。しかし後に豊楽(とよのあかり、新嘗祭の後の酒宴)の時に、山部大盾の妻はその玉釧を身に付けて出席した。そこで山部大盾が女鳥王の玉釧を奪ったのがばれ、石之日売は山部大盾を殺した。
『書記』では話が変わっている。隼別と雌鳥皇女を追ったのは、吉備品遅部雄鮒(きびのほむちべのおふな)と播磨佐伯値阿餓能胡(はりまのさえきのあたいあがのこ)である。

伊勢の蒋代野(こもしろの)で殺した。雄鮒らはそのとき、皇女の玉を探して裳の中から見つけた。二人の王の屍を廬杵河のほとりに埋めて復命した。皇后は雄鮒らに問わせて、「皇女の玉を見なかっただろうね」と問われ、「見ませんでした」答えた。
この年、新嘗祭のの月に、宴会があったとき、酒を内外の命婦に賜わった。近江の山の君稚守山の妻と、采女磐坂媛の二人の女の手に、良い珠をまいていた。皇后がその珠を見られると、雌鳥皇女の珠に似ていた。疑いをもたれて役人に検べさせると、「佐伯値阿餓能胡の妻の玉です」と答えた。阿餓能胡を責め調べると、「皇女を殺した日に探って取りました」と述べた。阿餓能胡を殺そうとされたが、代わりに自分の土地を差し出して死罪を償いたいと申し上げた。その土地を納めて死罪を許された。それでその土地を名づけて玉代(たまて)といった。

 

雌鳥皇女の玉を取ったのは吉備品遅部雄鮒である。それなのに佐伯値阿餓能胡が責められるのはおかしい。

ヤマトタケルは開化天皇である(34)~鹿と猪とモズ - 「人の言うことを聞くべからず」+

のように、また佐伯に濡れ衣が着せられた。
そしてこの皇后とは矢田皇女である。石之日売は山部大盾を許さなかったが、矢田皇女は(濡れ衣としても)佐伯値阿餓能胡を許した。
気になるのは、磐坂媛と吉備品遅部雄鮒である。「磐坂」は磐坂市辺押磐皇子の磐坂に通じ、「品遅部」は垂仁天皇の子のホムチワケに通じる。
佐伯値阿餓能胡は、吉備品遅部雄鮒がいなければ隼別を殺せなかった。次回、吉備品遅部雄鮒に該当する人物を追っていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(40)~訂正①・石之日売の正体

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仁徳天皇の皇后石之日売は、葛城の曽都毘古の娘である。
葛城の曽都毘古は、健内宿禰の子として知られている。
しかし『古事記孝元天皇の条には、健内宿禰の子として葛城長江曾都毘古とある。
「長江」の字が入っており、「曽」と「曾」の字の違いがある。
したがって葛城の曽都毘古と葛城長江曾都毘古は違い、石之日売は健内宿禰の孫にあたらない。

ヤマトタケルは開化天皇である(33)~磐之姫の正体 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見た桑田の玖賀媛が丹波系の石之日売の分身であり、また前回見たように、丹波系の媛の事蹟を出雲のものに付け替えていることを考えると、石之日売は元々丹波系の人物と考えることができる。
そして石之日売の八田若郎女(『書紀』では矢田皇女)への嫉妬が、『書紀』の石の日売の属性の付け替えを暗示しており、さらに『古事記』では仁徳と石之日売が仲直りしているのに対し、『書紀』では磐之媛が別居したまま死に、矢田皇女が皇后になっていることから、八田若郎女が何者なのかを知る必要がある。

八田若郎女は、仁徳天皇の異母妹である。宮主矢河枝比売の娘であり、兄に仁徳の前に皇太子になった宇遅能和気郎子、妹に速総別(はやぶさわけ)と婚姻して仁徳に殺される女鳥王がいる。そして、
「またその矢河枝比売の弟、袁那弁郎女(おなべのいらつめ)を娶して生みましし御子、宇遅之若郎女。」
と『古事記』にある。宇遅若郎女は仁徳の妃になっている。
名前の共通は近親婚の暗示である。だからこの場合、宇遅若郎女は宇遅能和気郎子の配偶者である可能性を考えなければならない。
ところが、二人は名前が十分に共通していないのである。「能」と「之」、「和気」と「若」の違いがある。
また「その矢河枝比売」とあるように、宮主矢河枝比売となっていない。だから宇遅若郎女は宇遅能和気郎子と近親婚の関係にない。

そして『書紀』でも「宅姫の妹、小甂媛」と『古事記』と同様の手を使っているが、宅姫が出雲系を表す「姫」表記となっているのに、小甂媛は丹波系の「媛」表記になっている。ここでも出雲系の人物に丹波系の属性が付けられている。
つまり、石之日売と八田若郎女は本来同一であり、『古事記』では石之日売は仁徳と添い遂げる存在、八田若郎女は孤閨をかこつ存在に分離した。女鳥王も石之日売の分身だが、これは殺される存在となった。宇遅若郎女は、出雲系の女性を丹波系に擬する存在である。ならば宇遅能和気郎子とは仁徳の分身で、宇遅若郎女との近親婚があったように思わせるのに本来の存在意義があったと考えることができる。ならば、

ヤマトタケルは開化天皇である(32)~「大鷦鷯」はミソサザイ、「大雀」はすずめ - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた、磐之姫が皇后である間の仁徳が平群木菟だというのも逆で、矢田皇女を皇后にしてからが出雲系の仁徳である。なおこの際、平群木菟を出雲系と断定するのも保留しよう。平群氏については後に書くだろう。

次回も訂正、そして今回の仮説の証明として、仁徳が何者なのかをもう一度見てみよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(39)~出雲系の男が丹波系の女に殺された可能性について②

印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)は『古事記』では、

鳥取の河上宮に坐して、横刀壱仟口(たちちふり)を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り、すなはちその宮に坐して河上部を定めたまひき。

 

と書かれている。印色入日子
石上神宮について、『書紀』の記述を見てみよう。

(垂任)三十九年冬十月、五十瓊敷命は、茅渟(和泉の海)の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。よってその剣を川上部という。またの名を裸伴という。石上神宮に納めた。この後に五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を掌らせられた。

 

とある。「鳥取の河上宮」から「茅渟の菟砥の川上宮」に変わっている。「河上」から「川上」に変わっていることにも注意すべきだろう。
次に異説が紹介される。

ーーある説によると五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀ー千口を造らせられた。この時に楯部、倭文部(しとりべ)、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部など十種の品部(とものみやつこ)を、五十瓊皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。このときに神が「春日臣の一族で、名は市河という者に治めさせよ」といわれた。よって市河に命じて治めさせた。これが今の物部首の先祖である。

 

「ある説によると」で書かれる異伝に、『書紀』の本音がある。鍛冶師の「河上」が丹波系であることが、これによってわかる。十種の品部は、五十瓊敷皇子が河上部を定めた印色入日子命でないことを示している。
この後の文章を見てみよう。

八十七年春二月五日、五十瓊敷命が妹の大中姫に語っていわれるのに、「自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい」といわれた。大中姫は辞退していわれるのに、「私はか弱い女です。どうしてよく神宝を収める高い宝庫に登れましょうか」と。五十瓊敷命は、「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことではない」と。諺にもいう「天の神庫は樹梯(はしたて)のままに」というのはこれがそのもとである。そして大中姫命は、物部十千根大連に授けて治めさせられた。物部連が今に至るまで、石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。

 

ここで大中姫が登場する。先の異伝で「忍坂」がでたので、允恭天皇の皇后の忍坂大中姫と解することもできる。
なお、先の異伝で春日臣が治めていた石上神宮の神宝を、物部氏が治める話に変わっている。これを見る限り、神宝を治める役割は物部氏でないことになる。
この後、以下の文が続く。

昔、丹波国の桑田村に名を甕襲という人がいた。甕襲の家に犬がいた。名を足往という。この犬は山の獣むじなを食い殺した。獣の腹に八尺の勾玉があった。それを献上した。この宝はいま石上神宮にある。

 

一見五十瓊敷入彦とは無関係な記述のようだが、ここまでで一くくりと見るべきである。
先に大中姫が出たのは、足往という犬に繋げるためである。
丹波の桑田というのは、

ヤマトタケルは開化天皇である(33)~磐之姫の正体 - 「人の言うことを聞くべからず」+

に登場した玖賀媛の出身地である。玖賀媛が足往=大中姫というストーリーを『書紀』は作り上げている。
ここで問題なのは、大中姫が「姫」表記で、出雲系であることを示していることである。ならば出雲系の姫が丹波系の男を殺したのか?
そうではない。これは丹波系の人物の事績を出雲に渡そうとしているのである。ならば『磐之姫の正体』の磐之姫は出雲系ではなかったか?
本当は丹波系である。次回、訂正が入る。


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ヤマトタケルは開化天皇である(38)~出雲系の男が丹波系の女に殺された可能性について①

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おそらく出雲系の男が、丹波系の女に殺された可能性がある。
その痕跡も『記紀』には残されている。
有名なのは、ヤマトタケルが童女に変装して、クマソタケルを殺した話だろう。
また安康天皇が皇后長田大郎女(『書紀』では中蒂姫)の連れ子の目弱王に殺される。『古事記』では目弱王は七歳とある。幼児が人を殺すのは考えにくいので、これも女が殺した話が変形したと考えることもできる。
またこんな話もある。


また一説によると、新羅王ををとりこにして海辺に行き、石の上に腹ばわせた。その後、斬って砂の中に埋めた。一人の男を残して、新羅における日本の死者として帰還された。その後新羅王の妻が、夫の屍を埋めた地を知らないので、男を誘惑するつもりでいった。「お前が王の屍を埋めたところを知らせたら、厚く報いてやろう。また自分はお前の妻となろう」と。男は嘘を信用して屍を埋めたところを告げた。王の妻と国人とは謀って男を殺した。さらに王の屍を取り出してよそに葬った。そのとき男の屍をとって、王の墓の土のそこに埋め、王の棺の下にして、「尊いものと卑しいものとの順番は、このようなのだ」といった。
天皇はこれを聞いてまた怒られ、大兵を送って新羅を滅ぼそうとされた。軍船は海に満ちて新羅に至った。このとき新羅の国人は大いに怖れ、皆で謀って王の妻を殺して罪を謝した。

 

この話は、神功皇后新羅征伐の話の異説として記されている。
新羅丹波系とすれば、王の妻に殺された男は出雲系である。
さらにもうひとつ、気になる記述がある。建波邇安王の反逆のくだりである。『古事記』から見てみよう。


かれ、大毘古命高志国(こしのくに)に罷り往きし時、腰裳服(け)せる少女、山代の幣羅坂に立ちて歌いて曰はく、
御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が緒を 盗み殺せむと 後つ戸よ い行き違ひ 前つ戸よ い行き違ひ 窺はく 知らにと 御真木入日子はや
(御真木入日子はまあ、御真木入日子はまあ。自分の命をひそかにねらって殺そうとする者が、人が来ると後の戸から行き違い、前の戸から行き違いして、こっそりと伺っているのも知らないで、御真木入日子はまあ)
とうたひき。ここに大毘古命あやしと思ひて、馬を返してその少女に問ひて曰はく、「汝が謂ひし言は何の言ぞ」といひき。ここに少女答へて曰はく、「吾は言(ものい)はず。ただ歌を詠ひしのみ」といひて、即ちその所如も見えずて忽ち失せにき。

 

この後、大毘古は崇神に報告し、少女の歌を建波邇安王の反逆の兆候と解釈する。
次に、『書紀』の同じところを見てみよう。


崇神十年九月)二十七日、大彦命は和珥の坂についた。とき少女がいて歌っていた。
御間城入彦はや 己が夫を 弑せむと 盗まく知らに 姫遊びすも

 

「己が夫」とあるのが気になる。『古事記』では「己が緒」とあり、緒は「玉の緒」の意味で命のことだと、講談社の『古事記』の注釈にある。しかし『書紀』では、この部分は女性に語りかけている。そして後半は、崇神が女性と戯れているところを狙われていると見ることができるが、この部分は男に語りかける内容であり、前半と矛盾する。
古事記』では幣羅坂、『書紀』では和珥坂となっているのも気にかかる。
この点について、まだ深入りしないでおこう。
ただ、崇神に仮託して、何物かの暗殺に女性が関与しているのが、ここから察することができる。

ここで、崇神の名前に注目しよう。
崇神の和風諡号は『古事記』では御真木入日子印恵命である。
『書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇である。
『書紀』の和風諡号にある「五十瓊」から連想されるのは、垂任天皇の皇子で景行天皇の兄である五十瓊敷入彦である。
五十瓊敷入彦は、石上神宮
太刀千口を納めたことで知られている。また『書紀』では、垂任に「何が欲しいか」と尋ねられ、五十瓊敷命が「弓矢が欲しいです」と答え、景行が「天皇の位が欲しいです」と答えたため、景行が天皇になった経緯が記載されている。
石上神宮に太刀を納めた件について、『書紀』は異説を伝えている。


ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部、倭文部(しとりべ)、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部など合わせて十種品部(とものみやつこ)を、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。

 

ここで忍坂がでた。この五十瓊敷皇子はヤソタケルである。
私は五十瓊敷入彦、五十瓊敷命、五十瓊敷皇子と、三つの表記を使ったが、この表記は『書紀』によるものである。

ヤマトタケルは開化天皇である(24)~飯豊皇女は三人いる - 「人の言うことを聞くべからず」+

の中で、「イリ」の名を持つ者を丹波系、「ワケ」の名を持つ者を出雲系としたが、五十瓊敷入彦と表記される場合は丹波系であり、五十瓊敷命、五十瓊敷皇子とある場合は出雲系である。だから御間城入彦五十瓊殖天皇も、御間城入彦が丹波系、五十瓊殖が出雲系を現す。
次回、五十瓊敷入彦を見ていこう。


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ヤマトタケルは開化天皇である(37)~ニギハヤヒ、ヤソタケル、クマソタケル

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ニギハヤヒ天火明命は同一だとも、違うとも言われる。
私の見る限り、祖神を天火明命とする氏族が尾張系、つまり丹波系で、ニギハヤヒを祖神とする氏族が物部系、つまり出雲系である。
古事記』では、

邇芸速日命、登美毘古が妹登美夜毘売を娶して生みし子、宇麻志麻遅命

 

とある。
同母の異性の兄弟の名前の共通は、近親婚の暗示である。しかしトミビコとトミヤビメでは、名前が完全に共通していない。近親婚でない可能性がある。
『書紀』では、長髄彦の妹の三炊屋媛を娶って可美真手命(ウマシマデノミコト)を生んだとある。
ここで三炊屋媛の「媛」表記に注意するべきだろう。「媛」表記の女性は丹波系である。しかし長髄彦は前回述べたように、出雲系のはずである。だからこの兄妹の関係は嘘である。
系図の改竄は力関係によってできる。力の弱い出雲系は、基本的に丹波系の人物を自分達の系図に取り入れられない。
しかし『古事記』で登トミビコとトミヤビメが兄妹になっているのはどうか?トミビコは本当は神武を討った丹波系の人物なので、トミヤビメは出雲系である。
トミビコとトミヤビメの関係を、近親婚に見せかけている点に注意しよう。この関係がニギハヤヒに反映されている。
『書紀』ではニギハヤヒが神武に降伏し、使えたとある。
しかし『千代旧事本紀』では、ニギハヤヒは早くに死に、ウマシマデが大和国を治めているところに神武東征があって降伏する筋書きになっている。
そして『古事記』では、ニギハヤヒは大和にいない。神武東征の終わった後、天下りして神武に仕えるが、降伏したわけではない。
戸矢学の『ニギハヤヒ』によると、全国のウマシマジ(ウマシマデ)を祀る神社は60社あるが、その中でニギハヤヒを祀る神社は16社しかないという。
つまりニギハヤヒは出雲系に見えても、やはり実態は丹波系で、出雲系が丹波系から借りたような存在なのである。目上からの借り物だから、扱いに慎重になる。

海部氏系図では、「登美屋彦の妹登美屋姫を娶る」
とある。トミヤヒコとトミヤビメだから、これは兄妹婚の暗示である。トミヤヒコは出雲系だとわかるので、この婚姻が初めにできた神話で、これを『古事記』がトミビコの妹トミヤビメを娶った話にし、『書紀』が『古事記』を元に、トミビコとトミヤビメを長髄彦と三炊屋媛の話に変えたのではないかと思われる。

次に、ヤソタケルの話である。
前回述べたように、神武東征以外にもヤソタケルは登場する。
登場するのは『景行紀』である。『書紀』では、ヤマトタケルの熊曾征討の前に、景行天皇熊襲を征伐する。


天皇は群卿に詔して、「聞くところによると、襲の国に厚鹿文(あつかや)、乍鹿文(さかや)という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十梟帥といっている。」

 

とあり、ヤソタケルが二人いることになっている。次に、

一人の臣が進み出ていった。「熊襲梟帥に二人の娘があります。姉を市乾鹿文(いちふかや)といい、妹を市鹿文(いちかや)といいます。容姿端麗で気性も雄々しい者です。沢山の贈物をして手下に入れるのがよいでしょう。梟帥の様子をうかがわせて、不意を突けば、敵を破ることもできましょう」と。

 

と、「熊襲の八十梟帥」が「熊襲梟帥」になっている。「熊襲梟帥」が「熊襲の八十梟帥」をつづめたものともとれるが、厚鹿文と乍鹿文のどちらが熊襲梟帥かわからない。
景行は市乾鹿文と市鹿文を味方に引き入れ、市乾鹿文を召して偽り寵愛する。市乾鹿文は父の弓の弦を切り、従兵に熊襲梟帥を殺させる。
景行は市乾鹿文の不孝を憎み、市乾鹿文を殺させる。

『景行紀』はこのくだりは、ヤソタケルとクマソタケルを習合させるためのものである。つまり厚鹿文と乍鹿文のどちらかが丹波系としてのヤソタケルであり、どちらかがクマソタケルである。
そしてここで、ひとつの仮説が生じてくる。それは、出雲、丹波のどちらかの人物が女性に殺されている可能性があるということである。そして『書紀』は、その人物は丹波系ではないと主張している。次回、その可能性を見ていこう。


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ヤマトタケルは開化天皇である(36)~ヤソタケル、兄磯城、長髄彦

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ヤマトタケルは開化天皇である(35)~神武東征からワカタケルに迫る① - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように、『書紀』には磯城のヤソタケルと、赤銅のヤソタケルの二人のヤソタケルが登場する。
今までのパターンから、二人のヤソタケルはそれぞれ丹波、出雲の系列の人物と考えられる。
磯城のヤソタケルの磯城は、「師木の水垣宮」「師木の玉垣宮」で「天の下治らしめ」た崇神、垂仁を思わせるので、磯城のヤソタケルが丹波系と考えていいだろう。
次に赤銅(あかがね)のヤソタケルだが、『記紀』では他に赤銅が出てくる箇所が見つからない。しかし白銅(ますみ)ならある。『書紀』の神世・神生みの異伝第一に、

伊弉諾尊のいわれるのに「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」とおっしゃって、そこで左の手で白銅鏡をおとりになったときに、お生まれになった神が大日孁尊(おおひるめのみこと、天照大神のこと)である。右の手で白銅鏡をおとりになったとき、お生まれになった神が月弓尊である。また首を回して後をごらんになった丁度そのときに、お生まれになったのが素戔嗚尊である。

 

とある。スサノオは白銅鏡によって生まれていないので、赤銅が出雲系を指すと思われる。
以上を踏まえて見ていこう。

そのころ国見丘の上に、八十梟帥がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭をおいていた。女坂・男坂・墨坂の名はこれから起きた。また兄磯城の軍は磐余(いわれ)の邑にあふれていた。

 

『書紀』の神武東征の記述である。
兄磯城の弟の弟磯城は神武に帰順し、

「わが兄の兄磯城は、天神の皇子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです」

 

と神武に進言する。ここに倒したはずのヤソタケルが再び登場する。
次に椎根津彦が、

「今はまず女軍を遣わして、忍坂の道から行きましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。こちらは強兵を走らせて、直ちに墨坂を目指し、宇陀川の水をとって、敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつけば、きっと敗れるでしょう」

 

と進言する。女軍を遣わすのはヤソタケルであり、墨坂に炭を置いているのもヤソタケルである。敵味方両方がヤソタケルになっている。
そして、

はたして男軍が墨坂を越え、後方から夾み打ちにして敵を破り、梟雄(たける)兄磯城を斬った。

 

とある。男軍を神武が使い、ヤソタケルになっている。また梟雄兄磯城とあることで、兄磯城もヤソタケルになったことがわかる。

結論から言えば、磯城のヤソタケルと兄磯城は丹波系である。『書紀』は兄磯城の軍勢を磐余の地に置き、イワレヒコである神武と重ね、忍坂の大室で殺したことにした。
しかしこの捏造は、『書紀』もはっきりと書くことができなかった。そのために殺したのをヤソタケルの残党とした。こうしてヤソタケルと磯城のヤソタケル、兄磯城を徐々に習合させていき、丹波系の人物が殺される話に作り替えていった。

それではナガスネヒコはどうかと言えば、『古事記』は最初に「登美の那賀須泥毘古」と記し、その後登美毘古とのみ書いている。一方『書紀』は、


長髄というのはもと邑の名であり、それを人名とした。

 

とある。登美毘古と長髄彦は違う。登美の那賀須泥毘古とは、登美毘古と長髄彦を同一に見せかけた虚構の名前である。
鳥見の戦いで金色の鵄が飛来し、長髄彦の軍勢がその光に眩惑されて、神武が勝利する。金色の鵄にちなんで、その地が鳥見と名付けられる。鳥見は鳥見だろう。長髄彦に勝ったのは登美毘古である。

次回、登美毘古と、神武東征以外にヤソタケルが登場する場面がある。それらを見ていこう。


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