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「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(36)~ヤソタケル、兄磯城、長髄彦

シリーズ第一回目から読みたい方はコチラ↓

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ヤマトタケルは開化天皇である(35)~神武東征からワカタケルに迫る① - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように、『書紀』には磯城のヤソタケルと、赤銅のヤソタケルの二人のヤソタケルが登場する。
今までのパターンから、二人のヤソタケルはそれぞれ丹波、出雲の系列の人物と考えられる。
磯城のヤソタケルの磯城は、「師木の水垣宮」「師木の玉垣宮」で「天の下治らしめ」た崇神、垂仁を思わせるので、磯城のヤソタケルが丹波系と考えていいだろう。
次に赤銅(あかがね)のヤソタケルだが、『記紀』では他に赤銅が出てくる箇所が見つからない。しかし白銅(ますみ)ならある。『書紀』の神世・神生みの異伝第一に、

伊弉諾尊のいわれるのに「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」とおっしゃって、そこで左の手で白銅鏡をおとりになったときに、お生まれになった神が大日孁尊(おおひるめのみこと、天照大神のこと)である。右の手で白銅鏡をおとりになったとき、お生まれになった神が月弓尊である。また首を回して後をごらんになった丁度そのときに、お生まれになったのが素戔嗚尊である。

 

とある。スサノオは白銅鏡によって生まれていないので、赤銅が出雲系を指すと思われる。
以上を踏まえて見ていこう。

そのころ国見丘の上に、八十梟帥がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭をおいていた。女坂・男坂・墨坂の名はこれから起きた。また兄磯城の軍は磐余(いわれ)の邑にあふれていた。

 

『書紀』の神武東征の記述である。
兄磯城の弟の弟磯城は神武に帰順し、

「わが兄の兄磯城は、天神の皇子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです」

 

と神武に進言する。ここに倒したはずのヤソタケルが再び登場する。
次に椎根津彦が、

「今はまず女軍を遣わして、忍坂の道から行きましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。こちらは強兵を走らせて、直ちに墨坂を目指し、宇陀川の水をとって、敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつけば、きっと敗れるでしょう」

 

と進言する。女軍を遣わすのはヤソタケルであり、墨坂に炭を置いているのもヤソタケルである。敵味方両方がヤソタケルになっている。
そして、

はたして男軍が墨坂を越え、後方から夾み打ちにして敵を破り、梟雄(たける)兄磯城を斬った。

 

とある。男軍を神武が使い、ヤソタケルになっている。また梟雄兄磯城とあることで、兄磯城もヤソタケルになったことがわかる。

結論から言えば、磯城のヤソタケルと兄磯城は丹波系である。『書紀』は兄磯城の軍勢を磐余の地に置き、イワレヒコである神武と重ね、忍坂の大室で殺したことにした。
しかしこの捏造は、『書紀』もはっきりと書くことができなかった。そのために殺したのをヤソタケルの残党とした。こうしてヤソタケルと磯城のヤソタケル、兄磯城を徐々に習合させていき、丹波系の人物が殺される話に作り替えていった。

それではナガスネヒコはどうかと言えば、『古事記』は最初に「登美の那賀須泥毘古」と記し、その後登美毘古とのみ書いている。一方『書紀』は、


長髄というのはもと邑の名であり、それを人名とした。

 

とある。登美毘古と長髄彦は違う。登美の那賀須泥毘古とは、登美毘古と長髄彦を同一に見せかけた虚構の名前である。
鳥見の戦いで金色の鵄が飛来し、長髄彦の軍勢がその光に眩惑されて、神武が勝利する。金色の鵄にちなんで、その地が鳥見と名付けられる。鳥見は鳥見だろう。長髄彦に勝ったのは登美毘古である。

次回、登美毘古と、神武東征以外にヤソタケルが登場する場面がある。それらを見ていこう。


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お知らせ

メインブログで書きたいことが増えたので、サブブログの更新は月一回とします。読者の皆様にはご理解のほどよろしくお願いします。

ヤマトタケルは開化天皇である(35)~神武東征からワカタケルに迫る①

シリーズ第一回目から読みたい方はコチラ↓

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市辺忍歯王がヤマトタケル=開化の子であるなら、『記紀』にあるように、ヤマトタケル=開化の子は殺されたと思っていた。
しかし、殺されたのは丹波系のヤマトタケル=開化の子ではなく、出雲系の人物であることがわかってきた。
ここで、

ヤマトタケルは開化天皇である(25)~飯豊皇女と「ハエ媛」 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で紹介した、允恭天皇の皇后忍坂大中姫が、ヤマトタケルの系譜の大中姫に対応することから、允恭天皇を見てみよう
允恭天皇の和風諡号は、『古事記』では男浅津間若子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)『書紀』では雄朝津間稚子宿禰天皇である。奇異の感があるのは、諡号宿禰というカバネが入っていることと、「若子」という早世を思わせる語があることである。
ならば『書紀』に何歳で死んだと書いてあるかというと、

四十二年春一月十四日、天皇が亡くなられた四十二年春一月十四日、天皇が亡くなられた。年は若干であったーー七十八歳というーー

 

古事記』にも、「天皇の御年、漆拾捌歳(ななそぢあまりやとせ)」とある。
人を愚弄するような『書紀』の記述だが、『古事記』と『書紀』の享年が同じであるのは、事実であるか『古事記』と『書紀』の共謀であるかのどちらかである。
事実ならば丹波系のヤマトタケル=開化の子の享年であり、共謀ならば出雲系の人物の寿命を長くしたことになる。
真実はおそらく両方で、二人の人物を習合したうえで、変換したのだろう。二人のうち一方は殺された方で、もう一方は殺した方である。
とすると、論理的には長寿ののちに殺された可能性があるとしても、ヤマトタケル=開化の子は自然死したと考えた方がいい。

そろそろ、ヤマトタケル=開化の子に、便宜上の名前をつけよう。
このシリーズでは、ヤマトタケル=開化の子をワカタケルとする。その理由は、ヤマトタケルの系譜にあるヤマトタケルの子がワカタケルだからである。
ワカタケルというと、雄略天皇を連想しがちで、雄略の父の允恭をヤマトタケル=開化の子と見立てた後では不似合いの感があるが、神話の世界では父と子、敵同士が習合し、分化するのが難しくなっている。ただ前回の雄略がシシを殺す話は、私はヤマトタケル=開化の子の話だと思っている。
ワカタケルの子については、適宜な名前を考えている。話を先に進めよう。

ワカタケルが出雲系の人物を殺したことについて、もっと証拠を固めていきたい。そのため、もう一度神武東征を見て行きたい。

神武東征で神武が戦った敵は、エウカシ、ヤソタケル、エシキ、ナガスネビコで、うちナガスネビコとエシキに神武が勝った様子がないことは

ヤマトタケルは開化天皇である⑤~神武東征、オオクニヌシの国譲りから見る『古事記』の「和」の否定 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた。
ただしこれは、『古事記』の話である。『書紀』ではどうなっているか。
まずエウカシから。神武は八咫烏を遣わして、エウカシに帰順を求めたが、『古事記』ではエウカシは鳴鏑を放って八咫烏を追い返している。
鳴鏑を放ったことから、エウカシが大山咋であることがわかる。ただし『書紀』では、エウカシは鳴鏑を放っていない。
エウカシは戦おうとしたが、皇軍に敵し難いと思い、御殿を造り皇軍をもてなすふりをして密かに仕掛けを作った。その仕掛けを見破られ、自ら仕掛けにかかって死ぬ。ここは『記紀』共通である。
次にヤソタケルだが、ヤソタケルの場合は逆に、神武の方が忍坂に大室を造り、ヤソタケルの軍勢をもてなすふりをして、宴の最中に皇軍がヤソタケルの軍勢に斬りかかって皆殺しにする点で『記紀』共通である。しかし『書紀』の方は、そこに至る経緯が大部違う。

そのころ国見丘の上に、八十梟帥(ヤソタケル)がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭をおいていた。

 

エウカシの弟、オトウカシが神武に、

倭の国の磯城邑に、磯城の八十梟帥がいます。また葛城邑に、赤銅の八十梟帥がいます。この者たちは皆天皇にそむき、戦おうとしています。

 

と言う。ヤソタケルが二人いるのである。
こののち、皇軍は国見丘でヤソタケルを斬る。二人のヤソタケルのうちのどちらかは記載されていない。
まだヤソタケルの残党がいたので、皇軍は忍坂に大室を造り、酒宴を催し騙し討ちにする。
その課程で、皇軍がいくつか歌を歌うが、その後の文が異様である。

これは皆密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。

 

と『書紀』は言う。言い訳がましいが、実は神武に責任を負わせているのである。
まるで討ってはならない人物を討ったような文章だが、この残党に、首領のヤソタケルがいたとは書かれていない。
次回、ヤソタケルの正体と、エシキ、ナガスネビコに迫っていこう。


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ヤマトタケルは開化天皇である(34)~鹿と猪とモズ

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『仁徳紀』に、磐之姫が死んで矢田皇女が皇后になった後に、こんな物語がある。

秋七月、天皇と皇后が高台に登られて、暑を避けておられた。毎夜、菟餓野の方から鹿の鳴く音が聞こえてきた。その声はものさびしくて悲しかった二人とも哀れを感じられた。月末になってその鹿の音が聞こえなくなった。天皇は皇后に語って「今宵は鹿が鳴かなくなったが、一体どうしたのだろう」といわれた。翌日猪名県の佐伯部が贈り物を献上した。天皇は料理番に「その贈り物は何だろう」と問われた。答えて「牡鹿です」と。「何処の鹿だろう」「菟餓野のです」 天皇は思われた。この贈り物はきっとあの鳴いていた鹿だろうと。
皇后に語っていわれるのに、「自分はこの頃物思いに耽っていたが、鹿の音を聞いてが慰められた。いま佐伯部が鹿を獲った時間何処場所を考えるに、きっとあの鳴いていた鹿だろう。その人は私が愛していることを知らないで、たまたま獲ってしまったが、やむを得ぬことで恨めしいことである。佐伯部を皇居に近づけたくない」と。役人に命じて安芸の渟田(ぬた)に移された。これが今の渟田の佐伯部の先祖である。

 

この後に異説が紹介される。

里人のこんな話がある。「むかし、ある人が菟餓が行き野中に宿った。その時二匹の鹿が傍に伏せていて、暁方に牡鹿が牝鹿に語って、『昨夜夢を見た。白い霜が沢山降って、私の体は覆われてしまった。これは何のしるしだろう』と。牝鹿は答えていうのに、『あなたが出歩いたら、きっと人に射られて死ぬでしょう。塩をその体に塗られることが、ちょうど霜の白いのと同じになるしるしでしょう』と。そのとき野に宿っていた人は不思議に思った。明方猟師がきて牡鹿を射て殺した。時の人の諺に『鳴く鹿でもないのに、夢占いのままになってしまった』というのである」と。

 

この異伝が『書紀』の本当の主張で、「鳴く鹿」を殺したのは猪名の佐伯部ではない。濡れ衣である。ならば「鹿」が何で、佐伯部が何かが問題になる。先に「鹿」の謎を解こう。
『雄略紀』を見てみよう。



五年春二月、天皇葛城山に狩りをされた。不思議な鳥が急に現れ、大きさは雀ぐらいで、尾は長く地に曳いていた。そして鳴きながら、「ゆめ、ゆめ(油断するな」といった。にわかに追われて怒ったシシが、草の中から突然とび出し、人にかかってきた。狩人たちは木によじ登り大いに恐れていた。天皇は舎人に詔りして、「猛きシシも、人にあっては止まるという。迎え射て仕止めよ」といわれた舎人は人となりが臆病で、木に登って度を失い恐れおののいた。シシは直進して天皇に食いつこうとした。天皇は弓で突き刺し、足を挙げて踏み殺された。狩りも終わって舎人を斬ろうとされた。舎人は殺されようとするとき歌を読んだ。
八隅しし 我が大君の 遊ばしし 猪のうたき かしこみ 我が逃げ登りし 荒り丘の上の 榛が枝あせを

 

まず雀ぐらいの鳥からいこう。
この鳥の正体、答えはモズである。モズはスズメ目モズ科の鳥で、体長はスズメより少し大きく、尾が長い。『仁徳紀』に、鹿の耳にモズが入り耳の中を食いちぎったために鹿が死んだ話がある。モズが出てきたのは、雄略がモズだからである。
次に、この話は『古事記』にもあるが、『古事記』では逆に、雄略が猪から逃げている。そして榛の木に登って歌を読むが、その歌が『雄略紀』の歌とほぼ同じである。
そして『古事記』は雄略が襲われるのは猪だが、『書紀』には「シシ」とある。
実は猪も鹿も、どちらも「シシ」という。私は『書紀』は現代語訳で読んでいるが、おそらく原文も「シシ」だろう。
また『古事記』の雄略は鏑矢で猪を射るが、鏑矢は

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で紹介した、「鳴鏑の神」の大山咋を表す。
さらに言えば、舎人が読んだ歌は「我が大君」=「猪」と読める。『古事記』においては、猪は最強の神獣で、ヤマトタケルも猪に会って死んでおり、『古事記』の世界では猪が登場すれば、人は必ず負ける。
結論を後回しにして、次に『書紀』、『千代旧事本紀』の雄略による、市部押磐皇子殺害の話をしよう。
雄略が市部押磐皇子を射殺する時に、「鹿がいる」と雄略がいう。
これが『千代旧事本紀』では「猪がいる」になっている。
つまり結論は、『古事記』の雄略=『書紀』の舎人=鹿=大山咋で出雲系、『書紀』の雄略=猪=モズで丹波系である。『書紀』で雄略が「シシ」を殺すことで、猪と鹿が変換され、『千代旧事本紀』で猪を殺す話になった。
そして殺された市部押磐皇子の周りを佐伯部売輪右往左往し、佐伯部売輪も殺されてしまう。濡れ衣を着せられた佐伯部こそ、殺された鹿だった。

随分前の話だが、この話はヤマトタケル=開化の子の話として書き続けていた。
その間飯豊皇女、アシナズチ、櫛稲田姫、髪長姫、アメノヒボコ、ツヌガアラシト、応神、神功皇后、仁徳と書き続け、私なりの独自の解釈をしてきたが、肝心のヤマトタケル=開化の子の話に迫れなかった。
しかしこれでやっと、ヤマトタケル=開化の子の実像に、少しだけ迫ることができるのである。次回以降、ヤマトタケル=開化の子の話に戻していこう。


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ヤマトタケルは開化天皇である(33)~磐之姫の正体

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仁徳天皇の皇后石之比売は、仁徳が八田若郎女を娶りたいと言われて怒り、山城の屋敷に籠ってしまう。
この話は『記紀』双方にあるが、それぞれの結論が違う。『古事記』では石之比売が仁徳に説得されて戻るが、『書紀』では磐之姫は説得に応じずに死に、矢田皇女が皇后になる。
古事記』を見てみよう。
石之比売が山城の屋敷に籠ると、仁徳は口子臣を遣わして石之比売を説得させる。
口子臣は庭に平伏し石之比売に語りかけようとするが、石之比売は行き違って反対の方に行ってしまう。口子臣が反対の方へ行くと、石之比売は元の所に戻っている。庭に溜まった雨水が口子臣の衣服を濡らす。
口子臣の妹の口日売は、石之比売に仕えていた。口日売は見かねて、

山代の 筒木の宮に 物申す 我が兄(せ)の君は 涙ぐましも

 

と歌を歌う。そうしているうちに石之比売の機嫌が治っていく。
口子臣と口日売は、兄妹で名前が共通している。兄弟姉妹の名前の共通は、近親婚の暗示である。
口子臣と口日売の存在により、仁徳と石之比売が近親婚に擬せられる。しかし近親婚を家臣の近親婚と重ね合わせることで表現しなければならないというのは、近親婚があった可能性が低いかもしれない。
近親婚があったのかどうかを判断する鍵は、口日売にある。

有名な海幸山幸神話で、互いに道具を交換した後、山幸彦は海幸彦の釣り針を無くしてしまう。
山幸彦は海神の宮殿に探しに行き、鯛の喉に引っ掛かっていた釣り針を見つける。

この話が、『書紀』の異伝第二では鯔(いな)となっている。鯔とはボラのことである。

また別伝に、「鯔に口の病があるということです」というものがあり、急いで呼んで口を探ると、紛失した釣針が見つかった。そこで海神が禁じていわれるのに、「お前鯔は、これから餌を食べてはならぬ。また天孫にすすめる御膳に加わることはできない」と。

 

とある。さらに異伝第四に、

海神は赤女や口女を呼んで訪ねられた。すると口女は口から針を出した。赤女は赤鯛、口女は鯔である。

 

とある。この口女が口日売である。
なぜ天孫の御膳に加わるのを禁じられた鯔が口日売なのかだが、その理由を書くのは相当先になりそうである。今は仁徳と石之比売の話を進めよう。

『書紀』では、仁徳に遣わされて磐之姫を説得しようとするのは、口子臣ではなく口持臣となっている。妹はいるが、名前は国依媛である。近親婚の暗示がない。
さらに、磐之姫の別居の話の直前に、桑田の玖賀媛の話がある。仁徳は磐之姫の嫉妬を恐れて玖賀媛を後宮に入れることができないので、玖賀媛の面倒を見る男を求めると、速待という者が願い出た。しかし玖賀媛は速待と打ち解けず、しばらくして玖賀媛は死んでしまう。
磐之姫の別居の話と、玖賀媛の話は良く似ている。
実はこれは『書紀』が、異伝の並列により、『古事記』のストーリーを解体する形式の変型なのである。だから名前が違っても人物は同じで、玖賀媛、国依媛は磐之姫、速待、口持臣は仁徳である。しかも磐之姫の別居で歌う中に、


つぬさはふ 磐之媛が おほろかに 聞こさぬ うら桑の木 寄るましき 川の隈々 よろほゆくかも うら桑の木

 

という仁徳の歌があり、磐之「媛」と言っている。「媛」表記は丹波系を表すので、口持臣と国依媛は近親婚の否定、速待と玖賀媛は婚姻の否定で、否定されたのは出雲系である。よってこの部分が前回の話の、仁徳=平群木菟である。以降、仁徳は大鷦鷯、丹波の君主として描かれる。
それでは丹波の君主としての仁徳がどのように描かれているのか、残ったいた鹿の話と絡めて、次回見ていこう。


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ヤマトタケルは開化天皇である(32)~「大鷦鷯」はミソサザイ、「大雀」はすずめ

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『書紀』仁徳紀には、


この天皇が生まれられたとき、みみずくが産殿に飛び込んできた。翌朝父の応神天皇武内宿禰を読んで、「これは何のしるしだろうか」と言われた。宿禰は答えて、「めでたいしるしです。昨日私の妻が出産する時、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことです」
といった。そこで天皇は、「わが子と宿禰の子とは同じ日に生まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しである。その鳥の名をとって、互いに交換して子どもに名づけ、後のしるしとしよう」とおっしゃった。それでサザキ(ミソサザイ)の名をとって太子につけ、大鷦鷯尊となった。ツク(みみずく)の名をとって大臣の子に名づけ、木菟宿禰といった。これが平群臣の先祖である。

 

とある。大鷦鷯と平群木菟は名前を交換しているので、『書紀』の仁徳は平群木菟であり、平群木菟が仁徳となる。

それでは『書紀』の仁徳が平群木菟のことなのかと言えば、そうではない。ある時点で別人に変わっている。
どの時点でそうなっているかを述べる前に、『古事記』と『書紀』の仁徳の名前の違いについて述べよう。
古事記』の仁徳は大雀天皇である。
『書紀』は大鷦鷯天皇である。この違いは、『古事記』が『書紀』より古い文献であり、古い表記を引用したためだと理解されている。
しかし、そんなことはないのである。

仁徳天皇は、異母妹の女鳥王を妻としようとして、弟の速総別(はやぶさわけ)王にその仲介をさせる。しかし速総別は逆に自分が女鳥王と契ってしまう。
女鳥王は速総別に、仁徳への謀反を勧める。その時に歌った歌が、


雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね

 

である。「鷦鷯」の字は、『古事記』の書かれた時代に既にある。
この意味は、「大雀」とは「おおさざき」と読ませても、実はすずめであるということである。雀も、『記紀』を読み解く上で重要なキーワードである。しかしこのシリーズで雀について語るのは、ずっと先になるだろう。

前回の

ヤマトタケルは開化天皇である(31)~新羅の王?仁徳天皇 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように、『古事記』の仁徳は出雲系のサホヒコの子である。
ならば「大鷦鷯」とは、「大雀」とは別人であり、丹波系である。
そして「大鷦鷯」が平群木菟で、ある時点で別人に変わっていることは、先に述べた。
それがわかる理由は、皇后である。
古代史に詳しい人なら、仁徳の皇后は石之比売(いわのひめ)と答えるだろう。
しかし『書紀』では、仁徳の皇后は二人いるのである。
仁徳が生きている間に、石之比売は死ぬ。その後仁徳は矢田皇女を立后する。
古事記』には、仁徳生存中に石之比売が死んだとは書かれていない。この時に、平群木菟である仁徳と、本来の仁徳が入れ替わっているのである。
次回は、石之比売が何物かを見ていこう。


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ヤマトタケルは開化天皇である(31)~新羅の王?仁徳天皇

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古事記』では、アメノヒボコの神話は応神天皇の条にある。応神崩御の記事の後に、アメノヒボコの神話があるのである。


また昔、新羅の国王(こにきし)の子ありき。

 

アメノヒボコの記事は始まっているので、アメノヒボコの話は応神崩御後の話ではない。応神より昔の話である。
アメノヒボコは日本に渡り、多遅摩(但馬)に土着する。
そしてアメノヒボコの記事の後に、秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)の話がある。



かれ、この神の女(むすめ)、名は伊豆志袁登売(イヅシオトメ)神坐しき。

 

と、この記事は始まる。「この神」とは、但馬の伊豆志(出石)神社の神である。
秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫は兄弟である。
多くの男がイヅシオトメと結婚したいと思ったが、誰も結婚できなかった。秋山之下氷壮夫も失敗した。兄は弟に、
「汝(な)はこの嬢子(をとめ)を得むや」
と尋ねると、
「易く得む」
と弟は答える。「簡単だ」と言うのである。
兄は弟の答えを聞いて、酒や山や河の産物を賭けた。
以上のことを弟が母に伝えると、母はすぐに藤の蔓を取ってきて、それで上衣、袴、襪、沓を織り、また弓矢を作った。それを弟に着せ、弓矢を持たせてイヅシオトメの家を弟を行かせた。すると衣服や弓矢は全て藤の花になった。
弟は弓矢をイヅシオトメの家の厠に掛け、イヅシオトメが不審に思って弓矢を持って家に入ろうとしたときに、弟は後をつけてイヅシオトメと契り、一人の子が生まれた。

問題は、なぜこの神話が、『古事記』の応神天皇の条の最後にあるのかである。
それは、秋山之下氷壮夫、春山之霞壮夫、イヅシオトメがそれぞれ何物かわかることで理解できる。なお、イヅシオトメはアメノヒボコの子ではない。『古事記』には、アメノヒボコが持ってきた八種の神宝を「伊豆志の八前の大神」と言っており、出石神社にアメノヒボコが祀られているとは書いていない(現在の出石神社には、アメノヒボコが祀られている)。イヅシオトメは鏡や玉などの「神宝」の娘である。

イヅシオトメが秋山之下氷壮夫、春山之霞壮夫それぞれと結婚した場合、イヅシオトメが何物になるか考えてみよう。
秋山之下氷壮夫、春山之霞壮夫はそれぞれ秋の神、春の神である。ならば秋の神、春の神が誰かを考えてみればいい。
秋の神は、シナツヒコという。対になる女神もいて、シナツヒメという。つまりイヅシオトメはシナツヒメとなる。これはわかりやすい。
問題は春の神である。これは対応する男神がいない。
しかし女神はいる。佐保姫という。
佐保姫と同じ。サホヒメと呼ばれる人物がいる。垂仁天皇の皇后の沙本比売である。ただ、両者は無関係とされる。
これが関係あるとすればどうか。沙本比売には同じ名前の兄の沙本毘古がおり、沙本毘古が春山之霞壮夫に対応する。
佐保姫と沙本比売が無関係というのは神道の主張なので、私ももう少し補完して説明しなければならない。
シナツヒコに対応する人物が、もう一人いる。それは椎根津彦である。元の名は珍彦(ウズヒコ)で、神武東征の際、海路の道案内をしたものである。シナツヒコとシイネツヒコで、語感が似ている。
以上は『書紀』の内容で、シイネツヒコは『古事記』では棹根津日子となっている。名前の由来は、神武天皇の棹をさし渡して船に引き入れたことにあるのだが、『書紀』ではその棹が椎の木でできていたとされている。『古事記』作成者にとって、シイネツヒコの名前が都合が悪い証左である。
サホヒコは、妹のサホヒメに垂仁天皇を暗殺するように命じ、謀反を起こす。ヤマトタケル=開化の分身的存在でもある垂仁と争うサホヒコは出雲系であり、シナツヒコ=シイネツヒコは丹波系である。
そして、サホヒコとサホヒメの間には子がいる。
いや、二人の間に子がいるとは、どこにも書かれていない。しかしサホヒメと垂仁の間に生まれた子には、本当に二人の子か疑いがあるのである。
古事記垂仁天皇の条は


沙本毘古命の妹、佐波遅比売命を娶して生みましし御子、品牟都和気命(ホムツワケ)。

 

とある。佐波遅比売がサホヒメであるのは、別のところに記載されている。
しかし物語が進行し、サホヒコが謀反を起こし、その課程でサホヒメが生んだ子の名前は本牟智和気(ホムチワケ)なのである。ホムツワケとホムチワケで、名前が違う。
サホヒメは、「もしこの御子を自分の子と思うなら引き取ってください」と言う。ホムチワケが垂仁の子であるのに疑いがかかっている。
『書紀』では佐波遅比売もホムチワケも登場せず、子の名はホムツワケで統一され、「自分の子と思うなら」というくだりもない。
ホムチワケとはサホヒコとサホヒメの間の子であると解釈するのが、一番妥当だろう。

古事記』で応神崩御後にアメノヒボコ秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫のストーリーがある理由は明白である。
応神の後の仁徳天皇はサホヒコの子であり、新羅系の人物であるというのが、『古事記』の主張である。しかしそれは詐称であり、出雲系の丹波系の血筋への憧れを表すものである。

次回は、『書紀』の仁徳がどのように記されているかを見ていこう。


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