「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である(74)~松浦の佐用姫伝説に見る「主嶋」と百済の「倉下」

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今回は、「松浦の佐用姫」の伝承である。まずは『肥前国風土記』から。

鏡の渡 郡役所の北にある。

昔、檜隈の廬入野の宮に天の下を治められた武少広国押楯(宣化天皇)のみ世に、大伴の狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮めさせ、かたがた百済の国を救援させ給うた。狭手彦は命を奉じてこの村まできて、篠原の村《篠はシノという》の弟日姫子を妻問いして結婚した。《日下部君らの祖である。》この姫は顔かたちは端正で美しく、人の世にすぐれた絶世の美人であった。別離の日になると、〔狭手彦は〕鏡を取り出して愛人に渡した。女は悲しみ泣きながら栗川を渡ると、贈られた鏡の緒が断れて落ち、川の中に沈んだ。そのことによってここを鏡の渡(渡し場)と名づける。

褶(ひれ)振の峰 郡役所の東にある。烽(とぶひ)のある場所の名を褶振の峰という。

大伴の狭手彦連が船出して任那に渡った時、弟日姫子はここに登って褶(肩布)をもって振りながら別れを惜しんだ。そのことによって名付けて褶振の峰という。


さて弟日姫子が狭手彦連と別れて五日たった後、ひとりの人があって、世ごとにきて女(弟日姫子)とともに寝、暁になると早く帰った。顔かたちが狭手彦に似ていた。女はそれを不思議に思ってじっとしていることができず、ひそかにつむいだ麻〔の糸〕をもってその人の衣服の裾につなぎ、麻のまにまに尋ねて行くと、この峰の沼のほとりに来て寝ている蛇があった。身は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の底に臥していた。たちまちに人と化為(な)って歌っていった。

篠原の弟姫の子ぞ

さ一夜も率寝てむ時や

家にくださむ

(篠原の弟姫子よ

一夜さ寝た時に

家に下し帰そうよ)

その時弟日姫子の侍女が走って親族の人たちに告げたので、親族の人はたくさんの人たちを連れて登って見たが、蛇と弟日姫子はともに亡せてしまっていなかった。そこでその沼の底を見るとただ人の屍だけがあった。みんなはこれは弟日姫子の遺骸だといって、やがてこの峰の南のところに墓を作って納めて置いた。その墓は現在もある。

 

以上が『肥前国風土記』の内容で、松浦の佐用姫は弟日姫子という名前になっている。
松浦の佐用姫の伝承の初出といっていいが、私の勘違いで、肝心の部分が入っていない。仕方がないので、ウィキペディアを見てみよう。

松浦佐用姫 - Wikipedia

ウィキペディアによると、佐用姫は大伴狭手彦と別れた後、加部島に渡って石になったとある。
しかしこれが文献資料によるものかがわからない。口伝えの伝承などでは、暗号が使えないので判断ができない。『万葉集』にも佐用姫の伝説が書かれているというが、加部島に渡って石になったと書いてあるかまでは見ていないためわからない。
ただ、ここで加部島が出た。加部島は、前回、前々回の嶹王が生まれた各羅嶋(加唐島)の隣の島である。そして加部島が、私がヤマトタケル=開化の出生地である「主嶋」の最有力候補だと思っている地である。
『書紀』の雄略二十年を見てみよう。

二十年の冬に、高麗の王、大きに軍兵を発して、伐ちて百済を尽(ほろぼ)す。爰(ここ)に小計(すこしばかり)の遺衆有りて、倉下(へすおと)に聚み居り。兵粮既に尽きて、憂泣(いさ)つること茲(ここ)に深し。是に、高麗の諸の将、王に言して曰さく、「百済の心許、非常(おもひのほかにあや)し。臣、見る毎に、覚えず自らに失(まど)ふ。恐るらくは更蔓生(またうまは)りなむか。請はくは逐ひ除(はら)はむ」とまうす。王の曰はく、よくもあらず。寡人(おのれ)聞く、百済国は日本国の宮家として、由来遠久し。又其の王、入りて天皇に仕す。四隣の共に識る所なり。といふ。遂に止む。百済記に云はく、蓋鹵王の乙卯年の冬に、狛の大軍、来りて、大城を攻むること七日七夜、王城降陥れて、遂に尉礼を失ふ。国王及び大后・王子等、皆敵の手に没ぬといふ。

 

「倉下」を「へすおと」と読んでいるが、なぜ「へすおと」と読んだのだろう。『書紀』には読み方が書いてある場合があるが、ここにはない。
「倉下」は「へすおと」ではなく「くらじ」ではないか?
百済記に云はく」と注があり、大筋はそれになぞっているが、「倉下」に僅かの兵が集まったとは『百済記』には書いていない。つまり「倉下」に人が集まったというのは嘘である。
次回、この後百済がどうなったのか見てみよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(73)~「主嶋」はヤマトタケル=開化の出生地

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武烈紀の武烈四年の記事。

是歳、百済の末多王、無道して、百姓(たみ)に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王をたつ。是を武寧王とす。百済新撰に云はく、末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、共に除つ。武寧王立つ。諱は斯麻王といふ。是れ崑支王子の子なり。即ち末多王の異母兄なり。崑支、倭に向づ。時に、筑紫嶋に至りて、斯麻王を生む。嶋より還し送りて、京に至らずして、嶋に産る。故因りて名づく。今各羅の海中に主嶋有り。王の産まれし嶋なり。故、百済人、号(なづ)けて主嶋とすといふ。今案(かむが)ふるに嶋王は是蓋鹵王の子なり。末多王は、是れ崑支王の子なり。此を異母兄の曰ふは、未だ詳ならず。

 

まず、崑支の「崑」は検索できない漢字で、正しくは

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である。

ヤマトタケルは開化天皇である(72)~百済武寧王の誕生 - 「人の言うことを聞くべからず」+

の雄略五年の記事には実は続きがある。

秋七月に、軍君、京に入る。。既にして五の子有り。百済新撰に云はく、辛丑年に、蓋鹵王、弟昆支君を遣して、大倭に向でて、天王に侍らしむ。以て兄王の好(よしみ)を脩むるなりといへり。

 

とある。
「昆支」、「昆支君」などとあるが、現時点でこれらを区別することに意味は感じていない。
問題は、「昆支君」が「大倭」に向かい、「天王」に仕えたと書かれていることである。「軍君」は「日本」に向かい、「天皇」に仕えたはずである。
「曰」だから「加須利君」はそう言ってないではないかと思うならそれは違う。「乃ち其の弟軍君に告げて曰はく」は「乃告其弟軍君」で二重否定である。「曰」以外にどれが否定の字かと言えば、それは「乃」である。
「乃」を「すなわち」と読ませ、文章の冒頭に置いているが、「乃」は冒頭にある時はその文章の全体か文章の動詞、おそらく文章の動詞を否定している。『古事記』に宇遅能和紀郎子の異母妹宇遅乃若郎女が登場するが、宇遅乃若郎女の存在理由の少なくともひとつは、宇遅乃若郎女が宇遅能和紀郎子と近親婚関係にないことを知らせることで「乃」が否定の意味だとわからせるためである。
加須利君は軍君に、「日本に行き天皇に仕えろ」と言っている。「大倭」でなく「日本」、「天王」でなく「天皇」である。「大倭」という表記はいくつかの箇所で見かけているが、未だに仮説を立てられる段階にはない。とにかくここで言えることは、加須利君=蓋鹵王、軍君=昆支ではないということである。
しかし軍君に「昆支なり(昆支也)と注がついている。だから軍君=昆支だと思うだろうが、おそらくこの注が嘘である。
注の真偽を見分ける方法は、典拠があるかどうかだろう。「昆支」が「大倭」に向かったことは、『百済新撰』は『書紀』にしか存在したことが記されていない散逸文献だが、とにかく『百済新撰』を典拠として、加須利君=蓋鹵王、軍君=昆支を遠回しに否定しているのである。

さて、武烈四年の記事である。
「崑支王子」、「昆支」、「昆支王」という表記の違いがあるが、やはり現時点でこれらの表記の違いを区別はできない。
違いは「昆支」と「崑支」だろう。「昆支」が「大倭」に向かい「天王」に仕えたのに対し、「崑支」は「倭」に向かった。その「崑支」の「御子」が武寧王である。「是れ崑支王子の子なり(是崑支王子之子」とあるので、武寧王が崑支王子の「御子」なのは確実である。
そして武寧王は、諱が斯麻王である。『書紀』には「御名」という表記がないので、諱が『古事記』の「御名」のことだと思っている。
嶋王は加須利君の「御子」である。嶋王も武寧王ではないかと思うだろうが、「是を武寧王とす(是為武寧王)である。

ヤマトタケルは開化天皇である(63)~「おれ」は「お前」か? - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見てきたことが、ここで生きてくる。
「意礼大国主神と為り(意礼二字以音大国主神」とあるように、本来その人物でない者が成り代わったように装うには「為」る必要があるのである。
「今案ふるに嶋王は是蓋鹵王の子なり(今案嶋王是蓋鹵王之子也)」は嘘で、嶋王は加須利君の「御子」である。嘘を述べるために「今案ふるに」と言っているのである。
その軍君→昆支→崑支と変わるごとに、行き先が日本→大倭→倭と変わっていく。

「各羅の海中に主嶋有り」とあるが、この場合「各羅」は海の名前である。
嶋王は各羅嶋で生まれている。斯麻王は筑紫嶋で生まれており、これは九州をさす。主嶋と接点のある者は登場しない。
「故、百済人、号けて主嶋とすといふ」は「故百済人号為主嶋」で、「号けて主嶋と為す」と読むべきである。本来主嶋と呼ばないものを主嶋と「為」したのである。
ここで推測しなければならない。つまり『書紀』は、本来の主嶋を別のものに、そして百済人が呼ぶものにしなければならなかった。ならば主嶋とは、ヤマトタケル=開化の出生地ではないか?そして『書紀』が百済人が主嶋と呼んだことに仕立てようとしたことは、ヤマトタケル=開化が新羅人である可能性をかえって強めているのではないか?
主嶋については心当たりがある。次回、『風土記』を見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(72)~百済武寧王の誕生

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今回は『書紀』の雄略五年の記述を取り上げるが、まずその前に、雄略二年の記述から。

二年の秋七月に、百済の池津媛、天皇の将に幸さむとするに違ひて、石川楯に婬けぬ。

旧本に云はく、石河股合首の祖楯といふ。天皇、大きに怒りたまひて、大伴室屋大連に詔して、来目部をして夫婦の四支を木に張りて、仮技(さずき)の上に置かしめて、火を以て焼き死しつ。

百済新撰に云はく、己巳年に蓋鹵王立つ。天皇、阿礼奴跪を遣わして、来りて女郎(えはしと)を索はしむ。百済、慕尼夫人の女を荘飾らしめて、適稽女郎(ちゃくけいえはしと)と曰ふ。天皇に貢進るといふ。

 

「仮技」とは桟敷のことである。「技」の字も字が出ないために当てた字で正しくは

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である。
「適稽女郎と曰ふ(曰適稽女郎)」とあるから、「慕尼夫人の女(慕尼夫人女)」は適稽女郎ではない。

続いて、雄略五年四月の記事。

夏四月に、百済の加須利君、

蓋鹵王なり。飛(つてこと)に池津媛の焼き殺されたることを聞きて、

適稽女郎ぞ。籌議(はか)りて曰はく、「昔女人を貢りて采女とせり。而るに既に礼無くして、我が国の名を失へり。今より以後女を貢るべからず」といふ。乃ち其の弟軍君(こにきし)

昆支なり。に告げて曰はく、「汝、日本に往でて天皇に事へまつれ」といふ。軍君、対へて曰さく、「上君の命を違ひ奉るべからず。願はくは、君の婦を賜ひて、而して後に奉遣したまへ」とまうす。加須利君、則ち孕める婦を以て、軍君に嫁せて曰はく、「我が孕める婦、既に産月に当たれり。若し路にして産まば、冀(ねが)はくは一の船に載せて至らむに随ひて何処にありとも、速に国に送らしめよ」といふ。遂に与(とも)に辞訣れて、朝(みかど)に奉遣る。
六月の丙戌の朔に、孕める婦、果して加須利君の言の如く、筑紫の各羅嶋にして児を産めり。仍りて此の児を名けて嶋君と曰ふ。是に、軍君、即ち一の船を以て、嶋君を国に送る。是を武寧王とす。此の嶋を呼びて主嶋(にりむせま)と曰ふ。

 

蓋鹵王が「百済の池君媛が焼き殺された」のを聞いたとあるが、原文は「飛聞池津媛之所焼殺」である。また「焼」も字が違い、

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である。もっとも池津媛が「焼き死」されていないと言っているのではなく、雄略二年に「焼き死」された人物と、雄略五年に蓋鹵王が聞いた「焼き殺」された人物は違うのである。そして蓋鹵王が聞いた人物は「適稽女郎」である。
そして各羅嶋で「児」が産まれた。「名」けて嶋君と「曰」うので、二重否定で嶋君は「御名」である。
この嶋君が武寧王で、武寧王は各羅嶋で産まれた。しかしこの嶋は主嶋と呼ばれていない。
なお、百済の池津媛は百済出身であること以外、一切出自に関する記述がない。そして「焼き死」されたとあるが、「焼き死」されたのは「夫婦」で、池津媛とも石川楯とも書かれていない。
ここに百済王朝の系図を示そう。

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随分違う。蓋鹵王は武寧王の曾祖父である。昆支でさえ武寧王の祖父である。
蓋鹵王は「我が孕める婦、既に産月に当たれり。」と言っていないが、「我が孕める婦」は「我孕婦」で、これを二重否定と取れば肯定である。
『書紀』は、あくまで武寧王を蓋鹵王の「御子」にしたいらしい。
この武寧王に関する記述が、「武烈天皇紀」にもある。次回、武烈天皇を見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である~(71)開化天皇と清寧天皇、『書紀』と『先代旧事本紀』の関係

古事記』の開化天皇は稚倭根子日子大毘々命である。
『書紀』「開化紀」では、稚日本根子彦大日日天皇である。「倭」と「日本」の違いが気になるが、まだ「倭」が何を意味するかわかっていない。
しかし「毘」と「日」の違いがあるので、稚倭根子日子大毘々命が丹波系、稚日本根子彦大日日天皇を出雲系とみなすことができる。
他にも違うところがある。
稚倭根子日子大毘々命は「春日之伊耶河宮」で天下を治ろしめしたが、稚日本根子彦大日日天皇は、


冬十月丙申の朔戊申に、都を春日の地に遷す。春日、此をば箇酒鵝と云ふ。此を率川宮と謂ふ。率川、此をば伊社箇波と云ふ。

 

「是謂率川宮。」だから、率川宮は伊耶河宮ではない。だから稚倭根子日子大毘々命と稚日本根子彦大日日天皇は違う。
また『書紀』には、稚日本根子彦大日日天皇の他に、稚日本根子彦大日日「尊」という人物がいる。
「孝元紀」に、

二十二年の春正月の己己の朔壬午(十四日)に、稚倭根子彦大日日「尊」を立てて皇太子としたまふ。年十六。

 

とある。「開化紀」には、「大日本根子彦国牽天皇の二十二年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。年十六」とあるが、「己己の朔壬午」とは記載されていない。
またこの二人は、没年齢も違うのである。
「六十年夏四月の丙辰の朔甲子に、天皇崩りましぬ」と開化紀にあるが、孝元二十二年に十六歳で皇太子となり、孝元五十七年に孝元天皇が死んでいるので、開化天皇は百十一歳が没年齢のはずである。しかし、

冬十月の癸丑の朔乙卯に、春日率川坂本陵に葬りまつる。一に云はく、坂上陵。時に年百十五といふ。

 

と、「一に云はく」からの没年齢が違うのである。
もっとも、全てを確認してはいないが、ほとんどの天皇立太子したのは「~尊」である。そして『先代旧事本紀』での天皇も「~の尊」である。開化天皇も『先代旧事本紀』では稚日本根子彦大日日の「尊」という名で天皇として名を連ね、没年齢は百十五歳である。私が持っている『先代旧事本紀』は現代語のみで原文がないため確定しないのだが、一見して『書紀』に登場する、各天皇立太子した「~尊」が、そのまま『先代旧事本紀』の天皇にスライドしているように見える。しかしそうなると「~の尊」と「の」が入っているのが気になる。

「雄略紀」の二十二年を見ると、


二十二年の春正月の己酉の朔に白髪の皇子を以て皇太子とす。

 

とある。白髪皇子、すなわち清寧天皇は、奇しくも開化天皇と同じ、前天皇の二十二年の正月に立太子したことになる。
「清寧紀」に、「二十二年に、立ちて皇太子と為りたまふ」とあるので、白髪武広国押稚日本根子天皇と呼ばれる清寧天皇は正月に立太子したのではない可能性もあるが、稚日本根子彦大日日「尊」と同じく、「春正月の己己の朔壬午」に立太子した可能性があるのである。
そもそも、「二十二年」とあるだけで、雄略天皇の二十二年とは書いていない。名前も「稚日本根子」と、開化天皇と同じ名が入っている。
そして雄略天皇の二十二年に立太子したとした場合、その年十六歳ならば、生まれた年は雄略六年、数え年ならば雄略七年となる。また稚日本根子彦大日日「尊」の没年齢が稚日本根子彦大日日天皇と四歳違うと考えて、雄略二年か三年を見ることもできる。『書紀』では稚日本根子彦大日日天皇と「~尊」は同年齢のはずだが、『先代旧事本紀』の開化天皇は『書紀』と同じ開化六十年に死んでおり、『書紀』の二人の開化天皇より四歳年上となる。こう見ると、『書紀』の「~尊」は、『先代旧事本紀』の「~の尊」を作り出すための存在と見ることができる。
その年を見ていくと、それなりに気になる記述があるが、私が注目したいのは雄略五年である。
そもそも、「年」というのを、私はその人物の正しい年齢を記しているとは思っていない。
古事記』においては、その人物の年齢は「御歳」と記される。「御」がつかない限り、その人物の年齢を示しているとはみなせない。
そういう理由もあって、開化=清寧とした場合の生年から一年もしくは二年前の雄略五年を、次回見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(70)~神話を読み解くと神話が見える

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ヤマトタケルは開化天皇である(57)~「子」は親子関係の否定 - 「人の言うことを聞くべからず」+

でコメントを頂いたたぬきさんの件だが、正直わからない部分が多々あるのだが、気になったのは「2つの王朝が交代で王になった」という点である。
まず、王朝が2つ以上あるという点では、「三王朝交替説」を始め多くの論者がおり、古代史研究では常識的見解である。このブログも2つの王朝があったという仮説で論を進めており、前回の多利志比孤も「天を兄とし、日を弟とす」と主張していることから2つ以上の王朝があるのは確実と思われる。
しかし「交代で王位についていた」という点は疑問である。
多利志比孤の件でも「天」と「日」の関係性がはっきりしないが、「交代で王位についていた」と解釈できるものではない。
記紀』については、2つの王朝がひとつの系統であるように作為されているのはほぼ間違いないだろう。
しかし『記紀』にも、「交代で王位についていた」に確定できる明確な証拠は見つからない。
見つからないということは、今後証拠が出てくる可能性があるということでもあるが、私自身、『記紀』が記したいのはそういうことではないと思っている。『記紀』が記したいのは、

ヤマトタケルは開化天皇である③~オオゲツヒメ殺しから「真実」を読み解く - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように、祖先の歴史を隠蔽、改竄することへの罪悪感と、そこからくる「嘘はついていない」という思いである。それは多くの暗号となって現れている。
この暗号は、「真実を遺す」などという誠実なものではなく、本質的に醜怪なものである。しかしその暗号を読み解いて得られるものは非常に精緻である。不誠実な心情は、グロテスクな論理破綻を起こすのが普通だが、神話の不誠実は精緻な論理を構築するのである。

現在、私が漠然と「こうだ」と思っていることを述べよう。
かつて『先代旧事本紀』が話題となった時、『先代旧事本紀』にこそ真実が書かれているのではないかと議論されたが、私の見解は、『上宮記』のような『古事記』より古いことが確実視されている文献でない限り、『古事記』を否定する力を諸文献は持っていないということである。
例えば但馬の国造は日下部氏と言われているが、『古事記』にも先代旧事本紀』にも、そんなことは書かれていない。
古事記』には息長帯比売命の異母弟の大多牟坂王、『先代旧事本紀』には彦坐王の五世孫の船穂宿禰但馬国造と書かれている。
それがいつの間にか日下部氏が但馬国造になっているのだが、日下部連の祖は、『古事記』では日子坐王の「御子」の沙本毘古王である。
その経緯を調べることは今はできないが、但馬国造の祖を大多牟坂王から日下部氏に移す作為が施されているのはほぼ確実である。
ただしだからといって、『古事記』にこそ真実があるというのは前のめり過ぎな態度である。『古事記』には、真実はほとんど書かれていない。『古事記』に書かれていることの多くは「これが真実だと思ってもらいたい」ことである。
そして『古事記』を受けて、『日本書紀』、『先代旧事本紀』が神話を変換していく。それも「真実を書く」という態度でなく、自分達に都合のいいように神話を変換していくのである。
そしてその変換の仕方も、『古事記』と対立的なものではなく、多くは共犯関係によるものである。

ヤマトタケルは開化天皇である(66)~すり替えられた大国主神 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見た大国主神のすり替えを行った『書紀』は、血の繋がらない者への敵対的なものではなく、むしろ血を引いた祖先への遠慮の無さを私は感じている。『古事記』の大国主神のすり替えへの遠慮は、偉大な祖先を持たないことへの恐れだと思っている。だから『古事記』が出雲系、『書紀』が丹波系によって書かれたと私は思っているが、確証がある訳ではない。最終的な真実の判断は、精緻な読み解きをした後での心理的判断が必要となる。
そして今回、神話の変換によって何が見えてくるか、その一端を見て頂こうと思う。
摂津国風土記』から。

摂津の国の風土記にいう、--雄伴の郡。夢野がある。父老相伝えていうことには、昔、刀我野に牡鹿があった。その本妻の牝鹿はこの野にいて、その妾の牝鹿は淡路の国の野島にいた。その牡鹿はしばしば野島に行って妾と仲むつまじいことはくらべるものがなかったさて牡鹿は本妻のところに来て宿りその明くる朝、かれはその本妻に語って「昨夜夢の中で自分の背に雪が降り積もったと見た。また須々紀という草がいったいこれはどんな前兆だろう」といった。その本妻は夫がまたまた妾の所に行こうとするのを嫌って、嘘の夢合わせ(夢判断)をしていった、「背の上に草が生えたのは矢が背の上に刺さるという前兆です。また雪が降るのは、食塩を肉に塗られる(食品とされる前兆です。あなたが野島に行ったなら、かならず船人に出あって海の中で射殺されてしまうでしょう。決して二度と再び行ってはいけません」と。しかしその牡鹿は恋しさに耐えかねてまた野島に渡ったところが、海上で船に行き合ってとうとう射殺されてしまった。その故にこの野を夢野という。世間の諺にも「刀我野に立てる真牡鹿も、夢合わせのまにまに(夢判断しだい)」といっている。

 

風土記』の原文を現在持っていないので、この文を読み解くことはできないが、この文は

ヤマトタケルは開化天皇である(34)~鹿と猪とモズ - 「人の言うことを聞くべからず」+

で紹介した文によく似ている。

秋七月、天皇と皇后が高台に登られて、暑を避けておられた。毎夜、菟餓野の方から鹿の鳴く音が聞こえてきた。その声はものさびしくて悲しかった二人とも哀れを感じられた。月末になってその鹿の音が聞こえなくなった。天皇は皇后に語って「今宵は鹿が鳴かなくなったが、一体どうしたのだろう」といわれた。翌日猪名県の佐伯部が贈り物を献上した。天皇は料理番に「その贈り物は何だろう」と問われた。答えて「牡鹿です」と。「何処の鹿だろう」「菟餓野のです」 天皇は思われた。この贈り物はきっとあの鳴いていた鹿だろうと。
皇后に語っていわれるのに、「自分はこの頃物思いに耽っていたが、鹿の音を聞いてが慰められた。いま佐伯部が鹿を獲った時間何処場所を考えるに、きっとあの鳴いていた鹿だろう。その人は私が愛していることを知らないで、たまたま獲ってしまったが、やむを得ぬことで恨めしいことである。佐伯部を皇居に近づけたくない」と。役人に命じて安芸の渟田(ぬた)に移された。これが今の渟田の佐伯部の先祖である。

 

また

ヤマトタケルは開化天皇である(38)~出雲系の男が丹波系の女に殺された可能性について① - 「人の言うことを聞くべからず」+

にも通じる話である。
これが真実か神話かについて、私は前述の理由で神話だと思っている。神話を読み解くと神話が出てくるのである。その神話から諸文献の意図を読み取り、真実を構築する作業が必要だと私は思っている。

次回、『書紀』の開化天皇について見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(69)~『隋書 俀国伝』の多利思比孤から読み解けるもの

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『隋書 俀国伝』に、「姓は阿毎、字は多利思比孤、号して阿輩雞彌」という者が登場する。聖徳太子ではないかとしばしば言われている人物である。
気になるのは、『隋書 俀国伝』は「倭国伝」ではなく「俀国伝」だということである。私が購入した講談社学術文庫倭国伝』では、残念ながら「倭」の字に「修正」されているが、斎藤忠の『失われた日本古代皇帝の謎』やウイキペディアには「俀国伝」とある。
なぜ多利思比孤は「倭」の字を用いないのか?こう考えればいい。「倭王」ではないから、「倭」の字を用いることができなかった。
「倭」の王は、邪馬台国以来の血脈によって占められ、多利思比孤はその血脈でなかったから、「倭王」を名乗れず「俀王」を名乗ったのだと考えることができる。

使者言う、「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す。日出ずれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。

 

と、『隋書 俀国伝』にある。この場合、「兄」が多利思比孤なのか、「兄」と「弟」の真ん中なのか、どちらにしろ、「我が弟に委ねん」とある以上「弟」ということはない。つまり多利思比孤は「日」の家系、出雲系ではない。
ならばなぜ、多利思比孤の姓が「阿毎」なのか?「阿毎」は「天」のはずで、「天」は出雲系にしか用いることができない字のはずである。
その答えも見つけてある。『古事記』の天地初発から。

天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神

 

の「天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、』は「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天云阿麻。下效此。」である。「訓高下天云阿麻、下效此」は高より下の天は阿麻と訓む。下此に效う」である。
次に国生み神話から、

次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱と謂ふ

 

は「次生伊伎島、亦名謂天比登都柱自比至都以音。訓天如天。」である。「自比至都以音。訓天如天」は「比より都まで音を以てす。天は天の如く訓む」と訓む。
「天は天の如く訓む」とはどういうことだろうか?
答えは「阿毎」だろう。出雲系が「阿麻」で丹波系が「阿毎」と訓むのである。『古事記』では「訓高下天云阿麻」と記すだけで、「高」の字がない場合、「阿麻」と「阿毎」を分別して書いていない。「天」が出てきた場合、「阿麻」か「阿毎」かは、個別に検証するしかないのである。それが前回、天宇受売「命」が出雲系ではないといった理由である。
しかしこうなると、わからないことが出てくる。
このブログでは、3世紀のことを追求していたはずである。6世紀末の多利思比孤はどう関わるのか?3世紀のことと思っていたのが、実は6世紀のことだったのか?
それはまだ私にもわからない。

次回、たぬきさんのもうひとつの見解に答えるため、『風土記』について語るとしよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(68)~天宇受売「神」が「名猿田毘古神」の「名」を顕した真の理由

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今回は猿田毘古神について。『古事記』の猿田毘古神の記述。

ここに日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神ここにあり。かれここに、天照大御神、高木神の命以ちて、天宇受売神に詔りたまはく、「汝は手弱女なれども、いむかふ神と面勝つ神なり。かれ専ら汝往きて問はまくは、『吾が御子の天降りする道を、誰ぞかくて居る』と問へ」とのりたまひき。かれ、問ひたまふ時に答へ白さく、「僕は国つ神、名は猿田毘古神なり。出で居る所以は、天つ神の御子天降りますと聞きつる故に、御前に仕へ奉らむとして、参向へ侍ふ」とまをしき。

 

原文で読めば引っ掛かるところがいくつかあるが、今回注目すべきは「名は猿田毘古神なり(名猿田毘古神也)」で、

ヤマトタケルは開化天皇である(65)~「云」は肯定、「謂」は否定 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように「毘古」は丹波系ではないのだが、それが「名」であることで、「名猿田毘古神」が丹波系であることを匂わせている。
次の猿田毘古神の登場場面は、天津日子番能邇邇芸命天孫降臨した後である。

かれここに、天宇受売命に詔りたまはく、「この御前に立ちて仕へ奉りし猿田毘古大神は、専ら顕し申しし汝送り奉れ。またその御名は、汝負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。ここを以ちて、猨女君等、その猨田毘古の男神の名を負ひて、女を猨女君と呼ぶ事これなり。

 

「猿田毘古神」が「猿田毘古大神」となったことも気にかかるが、注目すべきなのは「猿田毘古」が「猨田毘古」と、「猿」から「猨」に変わったことである。
「猿田毘古大神は、専ら顕し申し汝送り奉れ」は「専所
顕申之汝送奉」で、(名を)顕したのではないことは明らかである。
「ここを以ちて、猨女君等、その
猨田毘古の男神の名を負ひて、女を猨女君と呼ぶ事これなり」は「以是猨女君等、負其猨田毘古之男神而、女呼猨女君之事是也」である。
「猨女君等」なのでこの後の文は「猨女君」のことを表していない。
この後の文章は、「猨女君」でない氏族が「猨田毘古」でない男神の「名」を負って、氏族の女性を「猨女君」と呼ばないという意味になる。
それにしてもややこしい。
そもそも「名猿田毘古神」の「名」を顕したのは天宇受売「神」である。それなのに天宇受売「命」は「猿田毘古大神」の「御名」を負うとなっている(亦其神御名者、汝負仕奉)。
もっとも前回述べたように、「其」は文脈を引き継いでいるとは限らない。
ならばこう考えるべきだろう。
天宇受売「命」は本来「猨女君」の祖だった。しかし『古事記』により、「猨女君」の「名」を「名猿田毘古神」からもらうという物語を与えられたようで、実は「猨女君」の「名」を奪われたのだと。
天宇受売「神」が「名猿田毘古神」の「名」を顕したのは、天宇受売「命」ならぬ天宇受売「神」が「名猿田毘古神」の「名」を負う体にしたいからである。因みに上記の文の少し前には「天宇受売命者猿女君等之祖」とある。
ならば天宇受売「命」が「御名」を負う体にされた、問題の「猿田毘古大神」の正体は出雲系ということになる。
しかしそうなると、これまでと話が違ってくる。「神」と「命」の違いがあろうと、天宇受売は出雲系のはずじゃないかと。
そう、違うのである。天宇受売「命」は出雲系ではない。
記紀』神話は、ひとつの暗号を読み解いたと思うと、それで全てが読み解けるのではなく、必ずと言っていいほど読み解けない所が出てくる。今回その壁にぶつかったのである。
しかし今私は、それに一定の解答を出すことができる。それを示すため、次回、『記紀』から離れて、聖徳太子ではないかと言われている『隋書俀国伝』の多利思比孤について語ろう。

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