「人の言うことを聞くべからず」+

坂本晶と申します。はてなでは「坂本晶の『人の言うことを聞くべからず』」をやっています。こちらはサブブログとして、古代史、神話を中心に扱っていきます。『水瓶座の女』という小説を、太陽出版から販売しております。読んで頂けたら嬉しいです。

ヤマトタケルは開化天皇である~(71)開化天皇と清寧天皇、『書紀』と『先代旧事本紀』の関係

古事記』の開化天皇は稚倭根子日子大毘々命である。
『書紀』「開化紀」では、稚日本根子彦大日日天皇である。「倭」と「日本」の違いが気になるが、まだ「倭」が何を意味するかわかっていない。
しかし「毘」と「日」の違いがあるので、稚倭根子日子大毘々命が丹波系、稚日本根子彦大日日天皇を出雲系とみなすことができる。
他にも違うところがある。
稚倭根子日子大毘々命は「春日之伊耶河宮」で天下を治ろしめしたが、稚日本根子彦大日日天皇は、


冬十月丙申の朔戊申に、都を春日の地に遷す。春日、此をば箇酒鵝と云ふ。此を率川宮と謂ふ。率川、此をば伊社箇波と云ふ。

 

「是謂率川宮。」だから、率川宮は伊耶河宮ではない。だから稚倭根子日子大毘々命と稚日本根子彦大日日天皇は違う。
また『書紀』には、稚日本根子彦大日日天皇の他に、稚日本根子彦大日日「尊」という人物がいる。
「孝元紀」に、

二十二年の春正月の己己の朔壬午(十四日)に、稚倭根子彦大日日「尊」を立てて皇太子としたまふ。年十六。

 

とある。「開化紀」には、「大日本根子彦国牽天皇の二十二年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。年十六」とあるが、「己己の朔壬午」とは記載されていない。
またこの二人は、没年齢も違うのである。
「六十年夏四月の丙辰の朔甲子に、天皇崩りましぬ」と開化紀にあるが、孝元二十二年に十六歳で皇太子となり、孝元五十七年に孝元天皇が死んでいるので、開化天皇は百十一歳が没年齢のはずである。しかし、

冬十月の癸丑の朔乙卯に、春日率川坂本陵に葬りまつる。一に云はく、坂上陵。時に年百十五といふ。

 

と、「一に云はく」からの没年齢が違うのである。
もっとも、全てを確認してはいないが、ほとんどの天皇立太子したのは「~尊」である。そして『先代旧事本紀』での天皇も「~の尊」である。開化天皇も『先代旧事本紀』では稚日本根子彦大日日の「尊」という名で天皇として名を連ね、没年齢は百十五歳である。私が持っている『先代旧事本紀』は現代語のみで原文がないため確定しないのだが、一見して『書紀』に登場する、各天皇立太子した「~尊」が、そのまま『先代旧事本紀』の天皇にスライドしているように見える。しかしそうなると「~の尊」と「の」が入っているのが気になる。

「雄略紀」の二十二年を見ると、


二十二年の春正月の己酉の朔に白髪の皇子を以て皇太子とす。

 

とある。白髪皇子、すなわち清寧天皇は、奇しくも開化天皇と同じ、前天皇の二十二年の正月に立太子したことになる。
「清寧紀」に、「二十二年に、立ちて皇太子と為りたまふ」とあるので、白髪武広国押稚日本根子天皇と呼ばれる清寧天皇は正月に立太子したのではない可能性もあるが、稚日本根子彦大日日「尊」と同じく、「春正月の己己の朔壬午」に立太子した可能性があるのである。
そもそも、「二十二年」とあるだけで、雄略天皇の二十二年とは書いていない。名前も「稚日本根子」と、開化天皇と同じ名が入っている。
そして雄略天皇の二十二年に立太子したとした場合、その年十六歳ならば、生まれた年は雄略六年、数え年ならば雄略七年となる。また稚日本根子彦大日日「尊」の没年齢が稚日本根子彦大日日天皇と四歳違うと考えて、雄略二年か三年を見ることもできる。『書紀』では稚日本根子彦大日日天皇と「~尊」は同年齢のはずだが、『先代旧事本紀』の開化天皇は『書紀』と同じ開化六十年に死んでおり、『書紀』の二人の開化天皇より四歳年上となる。こう見ると、『書紀』の「~尊」は、『先代旧事本紀』の「~の尊」を作り出すための存在と見ることができる。
その年を見ていくと、それなりに気になる記述があるが、私が注目したいのは雄略五年である。
そもそも、「年」というのを、私はその人物の正しい年齢を記しているとは思っていない。
古事記』においては、その人物の年齢は「御歳」と記される。「御」がつかない限り、その人物の年齢を示しているとはみなせない。
そういう理由もあって、開化=清寧とした場合の生年から一年もしくは二年前の雄略五年を、次回見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(70)~神話を読み解くと神話が見える

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ヤマトタケルは開化天皇である(57)~「子」は親子関係の否定 - 「人の言うことを聞くべからず」+

でコメントを頂いたたぬきさんの件だが、正直わからない部分が多々あるのだが、気になったのは「2つの王朝が交代で王になった」という点である。
まず、王朝が2つ以上あるという点では、「三王朝交替説」を始め多くの論者がおり、古代史研究では常識的見解である。このブログも2つの王朝があったという仮説で論を進めており、前回の多利志比孤も「天を兄とし、日を弟とす」と主張していることから2つ以上の王朝があるのは確実と思われる。
しかし「交代で王位についていた」という点は疑問である。
多利志比孤の件でも「天」と「日」の関係性がはっきりしないが、「交代で王位についていた」と解釈できるものではない。
記紀』については、2つの王朝がひとつの系統であるように作為されているのはほぼ間違いないだろう。
しかし『記紀』にも、「交代で王位についていた」に確定できる明確な証拠は見つからない。
見つからないということは、今後証拠が出てくる可能性があるということでもあるが、私自身、『記紀』が記したいのはそういうことではないと思っている。『記紀』が記したいのは、

ヤマトタケルは開化天皇である③~オオゲツヒメ殺しから「真実」を読み解く - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように、祖先の歴史を隠蔽、改竄することへの罪悪感と、そこからくる「嘘はついていない」という思いである。それは多くの暗号となって現れている。
この暗号は、「真実を遺す」などという誠実なものではなく、本質的に醜怪なものである。しかしその暗号を読み解いて得られるものは非常に精緻である。不誠実な心情は、グロテスクな論理破綻を起こすのが普通だが、神話の不誠実は精緻な論理を構築するのである。

現在、私が漠然と「こうだ」と思っていることを述べよう。
かつて『先代旧事本紀』が話題となった時、『先代旧事本紀』にこそ真実が書かれているのではないかと議論されたが、私の見解は、『上宮記』のような『古事記』より古いことが確実視されている文献でない限り、『古事記』を否定する力を諸文献は持っていないということである。
例えば但馬の国造は日下部氏と言われているが、『古事記』にも先代旧事本紀』にも、そんなことは書かれていない。
古事記』には息長帯比売命の異母弟の大多牟坂王、『先代旧事本紀』には彦坐王の五世孫の船穂宿禰但馬国造と書かれている。
それがいつの間にか日下部氏が但馬国造になっているのだが、日下部連の祖は、『古事記』では日子坐王の「御子」の沙本毘古王である。
その経緯を調べることは今はできないが、但馬国造の祖を大多牟坂王から日下部氏に移す作為が施されているのはほぼ確実である。
ただしだからといって、『古事記』にこそ真実があるというのは前のめり過ぎな態度である。『古事記』には、真実はほとんど書かれていない。『古事記』に書かれていることの多くは「これが真実だと思ってもらいたい」ことである。
そして『古事記』を受けて、『日本書紀』、『先代旧事本紀』が神話を変換していく。それも「真実を書く」という態度でなく、自分達に都合のいいように神話を変換していくのである。
そしてその変換の仕方も、『古事記』と対立的なものではなく、多くは共犯関係によるものである。

ヤマトタケルは開化天皇である(66)~すり替えられた大国主神 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で見た大国主神のすり替えを行った『書紀』は、血の繋がらない者への敵対的なものではなく、むしろ血を引いた祖先への遠慮の無さを私は感じている。『古事記』の大国主神のすり替えへの遠慮は、偉大な祖先を持たないことへの恐れだと思っている。だから『古事記』が出雲系、『書紀』が丹波系によって書かれたと私は思っているが、確証がある訳ではない。最終的な真実の判断は、精緻な読み解きをした後での心理的判断が必要となる。
そして今回、神話の変換によって何が見えてくるか、その一端を見て頂こうと思う。
摂津国風土記』から。

摂津の国の風土記にいう、--雄伴の郡。夢野がある。父老相伝えていうことには、昔、刀我野に牡鹿があった。その本妻の牝鹿はこの野にいて、その妾の牝鹿は淡路の国の野島にいた。その牡鹿はしばしば野島に行って妾と仲むつまじいことはくらべるものがなかったさて牡鹿は本妻のところに来て宿りその明くる朝、かれはその本妻に語って「昨夜夢の中で自分の背に雪が降り積もったと見た。また須々紀という草がいったいこれはどんな前兆だろう」といった。その本妻は夫がまたまた妾の所に行こうとするのを嫌って、嘘の夢合わせ(夢判断)をしていった、「背の上に草が生えたのは矢が背の上に刺さるという前兆です。また雪が降るのは、食塩を肉に塗られる(食品とされる前兆です。あなたが野島に行ったなら、かならず船人に出あって海の中で射殺されてしまうでしょう。決して二度と再び行ってはいけません」と。しかしその牡鹿は恋しさに耐えかねてまた野島に渡ったところが、海上で船に行き合ってとうとう射殺されてしまった。その故にこの野を夢野という。世間の諺にも「刀我野に立てる真牡鹿も、夢合わせのまにまに(夢判断しだい)」といっている。

 

風土記』の原文を現在持っていないので、この文を読み解くことはできないが、この文は

ヤマトタケルは開化天皇である(34)~鹿と猪とモズ - 「人の言うことを聞くべからず」+

で紹介した文によく似ている。

秋七月、天皇と皇后が高台に登られて、暑を避けておられた。毎夜、菟餓野の方から鹿の鳴く音が聞こえてきた。その声はものさびしくて悲しかった二人とも哀れを感じられた。月末になってその鹿の音が聞こえなくなった。天皇は皇后に語って「今宵は鹿が鳴かなくなったが、一体どうしたのだろう」といわれた。翌日猪名県の佐伯部が贈り物を献上した。天皇は料理番に「その贈り物は何だろう」と問われた。答えて「牡鹿です」と。「何処の鹿だろう」「菟餓野のです」 天皇は思われた。この贈り物はきっとあの鳴いていた鹿だろうと。
皇后に語っていわれるのに、「自分はこの頃物思いに耽っていたが、鹿の音を聞いてが慰められた。いま佐伯部が鹿を獲った時間何処場所を考えるに、きっとあの鳴いていた鹿だろう。その人は私が愛していることを知らないで、たまたま獲ってしまったが、やむを得ぬことで恨めしいことである。佐伯部を皇居に近づけたくない」と。役人に命じて安芸の渟田(ぬた)に移された。これが今の渟田の佐伯部の先祖である。

 

また

ヤマトタケルは開化天皇である(38)~出雲系の男が丹波系の女に殺された可能性について① - 「人の言うことを聞くべからず」+

にも通じる話である。
これが真実か神話かについて、私は前述の理由で神話だと思っている。神話を読み解くと神話が出てくるのである。その神話から諸文献の意図を読み取り、真実を構築する作業が必要だと私は思っている。

次回、『書紀』の開化天皇について見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(69)~『隋書 俀国伝』の多利思比孤から読み解けるもの

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『隋書 俀国伝』に、「姓は阿毎、字は多利思比孤、号して阿輩雞彌」という者が登場する。聖徳太子ではないかとしばしば言われている人物である。
気になるのは、『隋書 俀国伝』は「倭国伝」ではなく「俀国伝」だということである。私が購入した講談社学術文庫倭国伝』では、残念ながら「倭」の字に「修正」されているが、斎藤忠の『失われた日本古代皇帝の謎』やウイキペディアには「俀国伝」とある。
なぜ多利思比孤は「倭」の字を用いないのか?こう考えればいい。「倭王」ではないから、「倭」の字を用いることができなかった。
「倭」の王は、邪馬台国以来の血脈によって占められ、多利思比孤はその血脈でなかったから、「倭王」を名乗れず「俀王」を名乗ったのだと考えることができる。

使者言う、「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す。日出ずれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。

 

と、『隋書 俀国伝』にある。この場合、「兄」が多利思比孤なのか、「兄」と「弟」の真ん中なのか、どちらにしろ、「我が弟に委ねん」とある以上「弟」ということはない。つまり多利思比孤は「日」の家系、出雲系ではない。
ならばなぜ、多利思比孤の姓が「阿毎」なのか?「阿毎」は「天」のはずで、「天」は出雲系にしか用いることができない字のはずである。
その答えも見つけてある。『古事記』の天地初発から。

天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神

 

の「天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、』は「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天云阿麻。下效此。」である。「訓高下天云阿麻、下效此」は高より下の天は阿麻と訓む。下此に效う」である。
次に国生み神話から、

次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱と謂ふ

 

は「次生伊伎島、亦名謂天比登都柱自比至都以音。訓天如天。」である。「自比至都以音。訓天如天」は「比より都まで音を以てす。天は天の如く訓む」と訓む。
「天は天の如く訓む」とはどういうことだろうか?
答えは「阿毎」だろう。出雲系が「阿麻」で丹波系が「阿毎」と訓むのである。『古事記』では「訓高下天云阿麻」と記すだけで、「高」の字がない場合、「阿麻」と「阿毎」を分別して書いていない。「天」が出てきた場合、「阿麻」か「阿毎」かは、個別に検証するしかないのである。それが前回、天宇受売「命」が出雲系ではないといった理由である。
しかしこうなると、わからないことが出てくる。
このブログでは、3世紀のことを追求していたはずである。6世紀末の多利思比孤はどう関わるのか?3世紀のことと思っていたのが、実は6世紀のことだったのか?
それはまだ私にもわからない。

次回、たぬきさんのもうひとつの見解に答えるため、『風土記』について語るとしよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(68)~天宇受売「神」が「名猿田毘古神」の「名」を顕した真の理由

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今回は猿田毘古神について。『古事記』の猿田毘古神の記述。

ここに日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神ここにあり。かれここに、天照大御神、高木神の命以ちて、天宇受売神に詔りたまはく、「汝は手弱女なれども、いむかふ神と面勝つ神なり。かれ専ら汝往きて問はまくは、『吾が御子の天降りする道を、誰ぞかくて居る』と問へ」とのりたまひき。かれ、問ひたまふ時に答へ白さく、「僕は国つ神、名は猿田毘古神なり。出で居る所以は、天つ神の御子天降りますと聞きつる故に、御前に仕へ奉らむとして、参向へ侍ふ」とまをしき。

 

原文で読めば引っ掛かるところがいくつかあるが、今回注目すべきは「名は猿田毘古神なり(名猿田毘古神也)」で、

ヤマトタケルは開化天皇である(65)~「云」は肯定、「謂」は否定 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように「毘古」は丹波系ではないのだが、それが「名」であることで、「名猿田毘古神」が丹波系であることを匂わせている。
次の猿田毘古神の登場場面は、天津日子番能邇邇芸命天孫降臨した後である。

かれここに、天宇受売命に詔りたまはく、「この御前に立ちて仕へ奉りし猿田毘古大神は、専ら顕し申しし汝送り奉れ。またその御名は、汝負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。ここを以ちて、猨女君等、その猨田毘古の男神の名を負ひて、女を猨女君と呼ぶ事これなり。

 

「猿田毘古神」が「猿田毘古大神」となったことも気にかかるが、注目すべきなのは「猿田毘古」が「猨田毘古」と、「猿」から「猨」に変わったことである。
「猿田毘古大神は、専ら顕し申し汝送り奉れ」は「専所
顕申之汝送奉」で、(名を)顕したのではないことは明らかである。
「ここを以ちて、猨女君等、その
猨田毘古の男神の名を負ひて、女を猨女君と呼ぶ事これなり」は「以是猨女君等、負其猨田毘古之男神而、女呼猨女君之事是也」である。
「猨女君等」なのでこの後の文は「猨女君」のことを表していない。
この後の文章は、「猨女君」でない氏族が「猨田毘古」でない男神の「名」を負って、氏族の女性を「猨女君」と呼ばないという意味になる。
それにしてもややこしい。
そもそも「名猿田毘古神」の「名」を顕したのは天宇受売「神」である。それなのに天宇受売「命」は「猿田毘古大神」の「御名」を負うとなっている(亦其神御名者、汝負仕奉)。
もっとも前回述べたように、「其」は文脈を引き継いでいるとは限らない。
ならばこう考えるべきだろう。
天宇受売「命」は本来「猨女君」の祖だった。しかし『古事記』により、「猨女君」の「名」を「名猿田毘古神」からもらうという物語を与えられたようで、実は「猨女君」の「名」を奪われたのだと。
天宇受売「神」が「名猿田毘古神」の「名」を顕したのは、天宇受売「命」ならぬ天宇受売「神」が「名猿田毘古神」の「名」を負う体にしたいからである。因みに上記の文の少し前には「天宇受売命者猿女君等之祖」とある。
ならば天宇受売「命」が「御名」を負う体にされた、問題の「猿田毘古大神」の正体は出雲系ということになる。
しかしそうなると、これまでと話が違ってくる。「神」と「命」の違いがあろうと、天宇受売は出雲系のはずじゃないかと。
そう、違うのである。天宇受売「命」は出雲系ではない。
記紀』神話は、ひとつの暗号を読み解いたと思うと、それで全てが読み解けるのではなく、必ずと言っていいほど読み解けない所が出てくる。今回その壁にぶつかったのである。
しかし今私は、それに一定の解答を出すことができる。それを示すため、次回、『記紀』から離れて、聖徳太子ではないかと言われている『隋書俀国伝』の多利思比孤について語ろう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(67)~「等」はアバウトな否定、「其」は文脈を引き継ぐとは限らない。

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大国主神の国譲りの神話の、健御雷神が八重事代主神健御名方神の二神に国譲りを要求し、二神の了承を得て大国主神に再び国譲りの要求をした後の大国主神の台詞から。

ここに答へて白さく、「僕が子等二神の神の白すまにまに僕も違はじ。この葦原中国は、命のまにまに献らむ。ただ僕が住所は、天神の御子の天津日継知らしめす、とだる天の御単の如くして、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治めたまはば、僕は百足らず八十洞手に隠りて侍らむ。また僕が子等百八十神は、すなはち八重事代主神、神の御尾前となりて仕え奉らば、違ふ神はあらじ」とまをしき。

 

「八十洞手」の「洞」の字は、

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この「一百八十の子等」の「等」とは何だろうか?
「等」はアバウトという意味での否定である。「~など」と言いながら、実は違ったという意味の否定を表している。
他にも「~等之祖」という記述があったりする。例えば葛城長江曾都毘古は「玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣等之祖」とあり、これらの氏族の祖先であることをアバウトに否定している。

それでは、『古事記』の開化天皇の条の、開化天皇の「御子」日子坐王の記述を見てみよう。


また近淡海の御上の祝がもちいつく天之御影神の女、息長水依比売を娶して生みし子、丹波比古多々須美知能宇斯王、次に水穂之真若王、次に神大根王、亦の名は八瓜入日子王、次に水穂五百依比売、次に御井津比売。五柱

 

で、「丹波比古多々須美知能宇斯王此王名以音」となっており、「名」が「丹波比古多々須美知能宇斯王」を指すのか、それとも「丹波比古多々須美知能宇斯王」が「御名」で、「丹波比古多多須美知能宇斯王」の別の「名」なのかわからないようになっている。
次に、同じ開化天皇の条から。

その美知能宇斯王、丹波の河上の麻須郎女を娶して生みし子、比婆須比売命、次に真砥野比売命、次に弟比売命、次に朝庭別王。四柱

 

「其美知能宇斯王」とあるので、「美知能宇斯王」は「丹波比古多々須美知能宇斯王此王名以音」と現状見るしかない。ただし「生みし子」は「生子」なのでこの系譜は造作されている。
次に垂仁天皇の条から。

また丹波比古多々須美知能宇斯王の女、氷羽州比売命を娶して生みましし御子、印色之入日子命、次に大帯日子淤斯呂和気命、次に大中津日子命、次に倭比売命、次に若木入日子命。五柱

 

丹波比古多々須美知能宇斯王之女」とあるので、氷羽州比売命は「丹波比古多々須美知能宇斯王」の「御子」である。
次にその後、

またその氷羽州比売命の弟、沼羽田之入毘売命を娶して生みましし御子、沼帯別命、次に伊賀帯日子命。二柱

 

「其氷羽州比売命之弟」とあるので、沼羽田之入毘売命と氷羽州比売命は姉妹関係にある。
次にその後、

またその沼羽田之入日売命の弟、阿耶美能伊理毘売命を娶して生みましし御子、伊許婆夜和気命、次に阿耶美津比売命。二柱

 

「其沼羽田之入日売命之弟」とあるので、阿耶美能伊理毘売命と沼羽田之入日売命は姉妹関係にある。しかし「沼羽田之入毘売命」ではなく、沼羽田之入日売命」である。「丹波比古多々須美知能宇斯王」の系譜はここで途切れている。

ヤマトタケルは開化天皇である(57)~「子」は親子関係の否定 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた、「入」が「日子」の否定とする説を、私はここで否定する。
もっとも「入」には意味があるが、ここでは語らない。ちなみに
阿耶美能伊理毘売命は「阿耶美能伊理毘売命此女王名以音」とある。
「其」とある場合、前の文脈を引き継ぐ場合と、引き継がない場合があるようである。その場合、前の文脈と違う人物、物であることを示す字がその後にくる。それが「沼羽田之入毘売命」と「沼羽田之入毘売命」の違いである。
では「開化天皇の条の「丹波比古多々須美知能宇斯王此王名以音」はどうかというと、「名」として紹介されたものが、「以音」により「御名」となるのである。同様の理由で、阿耶美能伊理毘売命も「御名」となる。この場合、「美知能宇斯王」は「丹波比古多々須」が省略されただけで、前の文脈を引き継いでいると見るべきだろう。
そして重要なのは、「名」として紹介されなくとも、「名」のまま登場する人物が「記紀」に存在する可能性があることである。

次に垂仁天皇の条の乙訓伝説を見てみよう。


またその后(沙本毘売のこと)の白したまひしまにまに、美知能宇斯王の女等、比婆須比売命、次に弟比売命、次に歌凝比売命、次に円野比売命、併せて四柱を喚上(めさ)げたまひき。ちなみに。然るに比婆須比売命・弟比売命の二柱を留めて、其弟王二柱は、いと凶醜(みにく)きによりて、本つ土に返し送りたまひき。
ここに円野比売慚(は)じて言はく、「同じ兄弟の中に、姿醜きを以ちて還さえし事、隣里に聞えむ、これいと慚づかし」といひて、山代国の相楽に至りし時、樹の枝に取り懸りて死なむとしき。かれ、其地を号けて懸木と謂ひしを、今は相楽と云ふ。また弟国に至りし時、遂に峻しき淵に堕ちて死にき。かれ、其地を号けて堕国と謂ひしを、今は弟国と云ふなり。

 

「美知能宇斯王之女等」と「等」が入っていることで、アバウトに「美知能宇斯王之女」であることを否定している。比婆須比売命と弟比売命は「美知能宇斯王」の「女」で「御子」ではない。しかし歌凝比売命、円野比売命は「美知能宇斯王之女」だとは言っていない。しかも開化天皇の条には、真砥野比売命という円野比売命と間違える人物まで登場している。真偽はともかく、『古事記』は歌凝比売命と円野比売命を「美知能宇斯王之女」と思ってもらいたい意図がある。
興味深いのは、「山代国の相楽」は「山代国之相楽」で、「山代国」ではないが相楽であるのは間違いないのに、「弟国に至りし時」は「到弟国之時」と、弟国に居たのを否定している。それなのに「今云弟国也」と、その場所が弟国だと言い張っている。『古事記』にとって、円野比売命が死んだ場所は「弟国」でなければならないのである。

以上、「等」はアバウトの意味の否定だが、前回述べた『書紀』の大国主神のように一百八十一の「子」が、いるかどうかは、『古事記』からは判別できない。またそれを逆手にとって、『書紀』は百八十一の子がいる」と主張し、すり替えた大国主神を真の大国主神だと主張しているのである。

次回は、以前コメントを頂いたたぬきさんとの約束で、猿田毘古神をやるとしよう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(66)~すり替えられた大国主神

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『書紀』の大国主神の記述をもう一度見てみよう。


一書に曰はく、大国主神、亦の名は大物主神、亦は国作大己貴命と号す。亦は葦原醜男と曰す。亦は八千矛神と曰す。亦は大国玉神と曰す。亦は顕国玉神と曰す。其の子凡て一百八十一神有す。

 

「曰」という字が、ここでは問題である。
古事記』では、「曰」という字は、あまり使わない。変わりに「白」という字を多用する。
もっとも「白」ばかりではなく、「曰」もある。「曰」と「白」は字体が近い。ならばこの二字は使い分けられていると考えるべきだろう。
ならば「曰」が用いられている記述を紹介しよう。
href="http://sakamotoakiraf.hateblo.jp/entry/2018/08/27/064357">ヤマトタケル開化天皇である(61)~須佐之男命は大国主神になったのか? - 「人の言うことを聞くべからず」+

で既に紹介した記述である。

ここにその后、大御酒坏を取り、立ち依り指挙(ささ)げて歌ひて曰はく、
八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男にいませば うち廻る島の崎々 かき廻る 磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男はなし 汝を除て 夫はなし 綾垣の ふはやが下に むし衾 にこがや下に 栲衾 さやぐが下に 沫雪の 若やる胸を 栲綱の 白き腕 そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き 股長に
寝をしなせ 豊御酒 奉らせ
(八千矛の神の命は、わが大国主神よ。あなたは男性でいらっしゃるから、打ちめぐる島の崎々に、打ちめぐる磯の崎ごとに、どこにも妻をお持ちになっているでしょう。それにひきかえ、私は女性の身ですから、あなた以外に男はありません、あなたのほかに夫はないのです。綾織の帳のふわふわと垂れている下で、苧(からむし)の夜具のやわらかな下で、栲の夜具のざわざわとなる下で、沫雪ように白い若やかな胸を、栲の綱のように白い腕を、愛撫しからませ合って、わたしの美しい手を手枕として、脚を長々と伸ばしておやすみなさいませ。さあ御酒を召し上がりませ。)

 

href="http://sakamotoakiraf.hateblo.jp/entry/2018/06/23/064720">ヤマトタケル開化天皇である(59)~文脈で主語を判断してはいけない。 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べたように、須勢理毘売「命」とは須佐之男命の「妻」である。そして61番で紹介した「八千矛の 神の命 吾が大国主」は「夜知富許能 迦微能美許等夜 阿賀淤富久邇奴斯」で、、丹波系を表す「迦」の字が入っている。
しかし「曰」である。とすれば、「曰」が言ったことの否定と考えるのが妥当だろう。
しかしここには、もう一段深く考える必要がありそうである。
須勢理毘売「命」は須佐之男命の「妻」だが、「妻」とは記紀神話においては「子」や「兄」と同じ、造作された関係である。
そして「その后」、「嫡后」という言葉が出ている。この字は真実の夫婦関係を表しているのではないか?
もしそうならば、前回見たように八千矛神大国主神だから、須勢理毘売「命」と大国主神は真実の夫婦ということになる。須勢理毘売「命」も、名前からは丹波系と判断するしかない。これで須勢理毘売「命」は、須勢理毘売と同一ではないが、同じ丹波系だということができる。
これで、私の仮説に一歩近づいた。
私はワカタケルが兄妹婚をして娘が産まれ、その娘とワカタケルが親娘婚をして産まれたのがヤマトタケル=開化だという仮説を立てて、このブログを書いてきた。
この仮説は、直感でしかない。
須勢理毘売と須勢理毘売「命」も、親娘だと判断する材料はない。しかしそれでも、丹波系の女性が記紀神話に二人登場していること、そして須勢理毘売「命」が近親婚をしている可能性があることまでは証明できたのである。

ただ、ここで問題が生じている。
私はヤマトタケル=開化が日本の最初の統一者だと思っているが、そうであれば大国主神ヤマトタケル=開化だと見るべきだと思う。そしてその配偶者の須勢理毘売「命」がヤマトタケル=開化の母でもあると見るべきである。そして大穴牟遅神の配偶者須勢理毘売を『古事記』は「嫡妻」としている。「嫡妻」である以上「妻」でない、真実の夫婦関係なのだと考えることができる。
しかし須勢理毘売は須佐之男命の「女」であり須勢理毘売の「母」は須勢理毘売「命」ということになる。ワカタケルが大穴牟遅神に相当し、その「嫡妻」が須勢理毘売である以上、ワカタケルはヤマトタケル=開化の「子」に相当する。これでは私の主張と逆になる。
もちろん以上の関係は造作されているので、『古事記』の内容を鵜呑みにする必要はないのだが、ヤマトタケル=開化とワカタケルの関係を明白にする道筋はまだまだ立たない。しかしこれで、私が何度もワカタケルがヤマトタケル=開化の子だと考えた理由の一端は読者諸氏にお見せできたと思う。
そしてまた、大穴牟遅神=ワカタケルとなるとも限らないのである。なぜなら大穴牟遅神の一人称は全て「吾」である。「吾」が出雲系の一人称だとは確定していないが、その可能性が高いと思っている。
ならば「嫡妻」の「嫡」とは何かといえば、フェイクだと考えることができる。「嫡」に意味はなく、真実の夫婦関係は「后」や「娶」などで示されるということである。
とにかく大穴牟遅神の件は後回しにして、ワカタケルが父でヤマトタケル=開化が子だとする仮説を維持して、話を進めていく。

「曰」に話を戻そう。
須勢理毘売「命」の歌は万葉仮名で書かれている。
だから「八千矛」を「夜知富許」、「大国主」を「淤富久邇奴斯」と記述する。
しかし「八千矛」は「夜知富許」ではないし、「大国主」も「淤富久邇奴斯」ではない。そう記述すれば嘘になる。
現状わかっていることは、『古事記』は丹波系のことで嘘は書けないことである。ならば「曰」は「言っていない」と解釈するのが妥当である。事実、『古事記』の歌はほとんど、あるいは全て「曰」である。つまり歌は、ある者の属性が違う者に渡される、あるいはある者の属性を否定する詐術として使われているのである。

ヤマトタケルは開化天皇である(63)~「おれ」は「お前」か? - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた「意礼」が大穴牟遅神だとすれば、大国主神としてのヤマトタケル=開化の属性が「意礼」に付け替えられたとこれで解釈できそうである。しかも「意礼」は「二字以音」で、嘘はついていない。また倭健命の熊曾征伐で殺されたのも「意礼」と解釈できそうである。
こうして大国主神は「大国主神」、「八千矛神」の属性を奪われ、大穴牟遅神に「宇都志国玉神」の属性が加えられ、「葦原色許男命」と「謂」われた。
さらに大穴牟遅神は「始めて国を作」ったとされた。別に嘘ではないだろう。日本を統一したわけではないのだから。

『書紀』の大国主神の記述に戻せば、「一書に曰はく」で文章全体に否定を書けている。
「一書」は「一柱」で神や人物一人を表し、「一」で神や人物を表さないのを今までも見てきた。また「一に云はく」という表現もあるので、「一書」は文献の肯定である。
亦の名は大物主神で肯定、「国作大己貴命と号す」で否定であり、他は全て「曰」で肯定している。
『書紀』は大国主神、いや須佐之男命が国を作ったことを否定しているのである。
これは『古事記』の主張が間違いだからではない。丹波系が国を作ったのが出雲系より後であることを示唆するものである。
また『書紀』が嘘を言っているとも言えない。『書紀』の大国主神須佐之男命でなく「意礼」なら、筋は通るのである。
そしてヤマトタケル=開化の「大国主神」としての立場は「意礼」に奪われたのである。
ただし、二重否定でなく、「言っていない」という解釈も可能である。しかしそれは大国主神ヤマトタケル=開化に対する言い訳に過ぎないのだろう。

ところで「其の子凡て一百八十一神有す」とはどういうことだろうか。
それを探るため、次回、国譲りの神話と垂仁天皇の乙訓伝説を見ていこう。

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ヤマトタケルは開化天皇である(65)~「云」は肯定、「謂」は否定

1~50を読みたい人はコチラ↓

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「以音」の意味が分かると、色々なことが分かる。
神生み神話の石土毘古について、「訓石云伊波、亦毘古二字以音、下效此也」とあり、「石は伊波と云うと訓み、亦毘古二字は音を以てす。下此に效(なら)う」と読み下す。

ヤマトタケルは開化天皇である(57)~「子」は親子関係の否定 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で、「日子」は「日」の否定で丹波系だと述べたが、「毘古」もまた「毘」が否定されており、「日子」と「毘古」で丹波、出雲が逆転しているのである。そして、

ヤマトタケルは開化天皇である(50)~「速」「別」は否定の意味 - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた、伊邪那岐命伊邪那美命丹波系であるという前提が崩れた。また後にやるとしよう。

大国主神について、『古事記』は


大国主神。亦の名は大穴牟遅神と謂ひ、亦の名は葦原色許男神と謂ひ、亦の名は八千矛神と謂ひ亦の名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名あり。(大国主神。亦名謂大穴牟遅神牟遅二字以音。亦名謂葦原色許男神
色許二字以音
。亦名謂八千矛神亦名謂宇都志国玉神宇都志三字以音。併有五名

 

とある。これで、今まで大国主神の神話と言われてきた大穴牟遅神の活躍が、大国主神のものではない可能性が出てきた。
問題は、「併有五名
」である。大国主神には「御名」でない五つの名、つまり「仮名」があると考えなければならない。
文脈で判断すれば、大国主神、大穴(牟遅)神、葦原(色許)神、八千矛神、(宇都志)国玉神となる。
しかし「文脈で判断しない」のが『記紀』の読み方である。文中にない名前で「併せて五つの名あり」としている可能性があるのである。
ひとつ例を挙げよう。
『書紀』の大国主神の説明に、
一書に曰はく、大国主神、亦の名は大物主神、亦は国作大己貴命と号す。亦は葦原醜男と曰す。亦は八千矛神と曰す。亦は大国玉神と曰す。亦は顕国玉神と曰す其の子凡て一百八十一神有す。」
と、大国主神の「仮名」が七つになっている。
もうひとつ例を挙げよう。大国主神の子の木俣神について、
「かれその子を名づけて木俣神と云、亦の名を御井神と謂ふ。(故、名其子云二木俣神一、亦名謂御井
也。)」
とあり、「云」と「謂」を使い分けているのではないかと考えることができる。そうなると、先の
「訓石云伊波」の「云」をもし否定と考えたとしよう。するとこの一文は無意味な文となる。将来これに意味を見出だす可能性もあるが、現時点では素直に「石を伊波と訓む」としないと先に進めない。
私は「云」が肯定で「謂」が否定だと思っているが、今までと違い、『古事記』の中に決定的な証拠に見つけられないでいる。
ただ例は挙げよう。八俣の大蛇の中から。
「ここに須佐之男命、人その河上にありと以為(おも)ほして、尋ね覚(ま)ぎ上り往きたまへば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣けり。ここに「汝等は誰ぞ」と問ひたまひき。かれ、その老夫答へ言さく、「僕は国つ神大山津見神の子なり僕が名は足名椎と謂ひ、妻が名は手名椎と謂ひ、女が女は櫛名田比売と謂ふ」とまをしき。」
とある。ちなみに「覚ぎ上り」の「覚」の字は、

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櫛名田比売、いや「童女」は足名椎、手名椎の「孫」なのである。そして足名椎、手名椎は「名」と「謂」を否定ととれば「御名」だが、「童女」の「御名」は櫛名田比売ではない。
そして「童女」が出た。

ヤマトタケルは開化天皇である(62)~倭健命は熊曾健か? - 「人の言うことを聞くべからず」+

で述べた「童女」である。
この自己紹介の部分は、「僕名謂
足名椎、妻名謂手名椎、女女謂櫛名田比売。」である。(岩波版では「女が名は櫛名田比売と謂ふ」となっているが、私が講談社版に合わせて修正した。)
よって、『古事記』の大国主神の紹介文は、「名」を「謂」が否定し、さらに「以音」が否定した「牟遅」、「色許」、「宇都志」は大国主神の「御名」でないことになる。

次回、『書紀』の大国主神の話をしよう。

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